2020年 9月20日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200919_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 9月20日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編100:1〜5
讃 美 歌  137(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  出エジプト記12:1〜20(P.111)
      ルカによる福音書22:1〜2(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『思い掛けない救い』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  257(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたら
   よいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
              ルカによる福音書22:2


2020年 9月20日 主日礼拝説教要旨
出エジプト記12:1〜20、
ルカによる福音書22:1〜2「思い掛けない救い」

1.
 ルカによる福音書22:1〜2「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」、主イエス・キリストを殺すためにどうしたらよいかと考えていた。驚くべき言葉です。礼拝を献げている私たちの思いとは全く逆の思い、主イエスを殺そうと考えていた、という言葉が、しかし、今朝、私たちの教会の礼拝のために与えられた聖書の言葉、神の言葉です。いったい私たちとどのような関係があるのでしょうか。

 祭司長たちや律法学者たち、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の信仰の指導者が主イエスを殺したい、と思うようになった。それはいったいなぜか。

 主イエスが力ある奇跡をなさり、力ある言葉を語ってくださる。だから、自分たちの信仰の指導者としての地位が危なくなる、ということもありました。嫉み、僻み、妬みです。しかし、ただそれだけではなく、むしろ、主イエスが自分たちの生活の中に入ってこられると、困る、と思ったからです。なぜ、困るのか。主イエスが語ってくださった言葉に従って自分が変わらざるを得なくなるからです。だから、自分たちの生活の中に主イエスが語ってくださった言葉が入り込んでくることを、ほとんど反射的に拒絶してしまう。私たちは自分が変わる、ということについて、知らず知らずのうちに激しく抵抗します。自分が変わるのではなく、主イエスを変えようとする、神の言葉を変えようとします。主イエスが語ってくださった神の言葉に従って、自分を変えるのではなくて、自分の言葉に従って、神を変えようとします。このようにして、祭司長たちや律法学者たちと同じ姿をうっかりすると私たちもとってしまいます。

 なぜ、ユダヤの群衆は一度は主イエスを信じておきながら、結局、主イエスを殺そうとしたのか。自分たちが期待しているものを与えてくださる救い主ではない、と判断したからです。多くのユダヤの群衆が主イエスに期待していた救いは、ローマ帝国の支配を打ち破ってくださる救いでした。しかし、主イエスはローマ帝国の支配を武力で打ち破ろうとなさったのではない。主イエスが与えてくださろうとしておられた救いは、全ての人間を支配している罪の審きからの救い、死からの救いでした。だから、ユダヤの群衆は主イエスを見捨てたのです。自分たちが満たされるかどうか、自分たちが満足するかどうか。結局、自分たちの願いが満たされなかったから、主イエスを十字架に送り込んだ。自分たちが満足しなかったから、主イエスを十字架に磔た。決して他人事ではありません。自分が満たされたかどうか、満足したかどうか。

2.
 祭司長たちや律法学者たちはいつ主イエスを殺そうとしていたのか、というと、過越祭と除酵祭の時でした。ユダヤ三大祭のうちの一つで、最大の祭の時、礼拝の時でした。その礼拝への備えをする時に主イエスを殺す計略が始まっていました。しかし、過越祭と除酵祭の時はよろしくない、ユダヤの民衆が未だ主イエスをキリストと信じていたから、大混乱になってしまう。ですから、祭司長たちや律法学者たちの計略は過越祭の時以外の時に、除酵祭の時以外の時に主イエスを殺すことでした。しかし、主イエスの御計画、神の御計画は人々の謀略に反して、過越祭の時に、除酵祭の時に十字架に磔られることでした。

 弟子イスカリオテのユダに裏切られ、一番弟子ペトロにも裏切られ、全ての弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう裏切りの中で、主イエスは十字架に磔られてしまわれました。しかし、それが大祭司たちや律法学者たちの謀略に反して神の御計画でした。神の御計画は主イエスが過越祭の時に、除酵祭の時に十字架に磔られてしまわれること。それはいったいなぜか。

 ヨハネによる福音書がその冒頭において最後の預言者、洗礼者ヨハネの言葉を書き記しました。ヨハネによる福音書1:29「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」、1:36「見よ、神の小羊だ」、主イエスは神の小羊、世の、私たちの罪を取り除いてくださる神の小羊である。いったいなぜ主イエスは神の小羊なのか。

 最後の預言者ヨハネ、洗礼者ヨハネは、主イエスの母マリアの親戚エリサベトの夫で、祭司のザカリヤの子どもでした。ヨハネは祭司の息子として、神殿での礼拝や儀式をよく知っていたに違いありません。過越の祭はじめ、神殿では、毎日毎日、人々の罪のために犠牲の小羊が献げられていました。ヨハネは主イエスをその小羊と視たのです。この主イエスこそほんとうに人々を罪から救うことができる犠牲の小羊である。

 ヨハネは、過越の祭の小羊を思い起こして、神殿で毎日献げられる小羊を思い起こして、主イエスを神の小羊、世の罪、私たちの罪を取り除く神の小羊、と呼びました。かつて、エジプトにいた神の民イスラエルの人々を神の審き、死から救い出したのは過越の小羊の血でした。同じように、この主イエスこそが私たち人間の罪に対する神の審きから救ってくださる御方である、とヨハネは指し示しました。

 かつて過越の小羊の血が神の民イスラエルの人々を救ったように、主イエスの十字架の血潮が私たちを救ってくださいました。過越の祭がイスラエル人々がエジプトの奴隷生活から救い出されたことを絶対に忘れてはならないこととして献げてきた礼拝であったのと同じように、教会において執り行われる聖餐は主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の奴隷、罪の審き、死から救い出されたことを絶対に忘れてはならないこととして、教会が2000年間守り続けてきた儀式です。主イエスの十字架の死と復活による救いを記念する、想い起す儀式です。私たちが聖餐に与ることができるのはまことにさいわいです。COVID−19による疫病が終息し、ともに聖餐に与ることができる日を祈りつつ待ちたい。

 主イエスは、ヨハネによる福音書10:14〜15「わたしはよい羊飼いである。…わたしは羊のためにいのちを捨てる」、と語られました。羊飼いである主イエスが私たちのために羊となってくださり、身代わりに死んでくださった。この主イエスの十字架の死と復活のおかげで、私たちは神とともに生きることができるようになりました。主イエスは私たちが神とともに生きることができるように御自分の体である教会をつくってくださいました。教会に生きる時、私たちはしっかりと神に繋がって生きることができるのです。


―――――― 2020年 9月27日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編103:1〜5
讃 美 歌  139(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  ゼカリヤ書11:7〜15(P.1491)
      ルカによる福音書22:1〜6(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『イスカリオテのユダの謎』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  240(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏
聖書:しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。  ルカによる福音書22:3

2020年 9月13日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200912_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 9月13日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編98:1〜9
讃 美 歌  162(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  詩編95:6〜11(P.934)
      ルカによる福音書21:29〜38(P.152)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『逃げることができる』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  224(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
        ルカによる福音書21:33

2020年 9月13日 主日礼拝説教要旨
詩編95:6〜11、ルカによる福音書21:29〜38「逃げることができる」

1.
 私たちが聴いておりますルカによる福音書21:29〜38に記されている言葉を含む21:5〜38は、私たちの救い主主イエス・キリストが、天地が滅びる、この世の終わりについて語ってくださった言葉を記録しています。この世の終わりには戦争、地震、飢饉、疫病が起り、自然災害、天変地異が襲い、いろいろな恐ろしいことが起り、偽預言者たち、偽キリストが出現して惑わし、教会に対する大きな迫害が起こり、天地が滅びる。主イエスが天から再び来られて審きをなさる。教会はこのような主イエスが再び来られる、天地が滅びる、最後の審判が執り行われる、などという愚かなことを語っているのか、という批判があるかも知れません。しかし、21:33「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」、主イエスが語ってくださった言葉は決して滅びない。たとえ天地が滅びても、天地が滅びる、と語ってくださった主イエスの言葉が滅びてしまうことはありません。

2.
 その時、どうしたらよいか。21:36「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」、堂々と闘うのではなくて、逃げたらよい。21:21「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」、逃げたらよい。何も頑張る必要はない。逃げたらよい。逃げる時には、ユダヤにいる人々は山の中へ逃げたらよい、都エルサレムにいる人々は都に留まるのではなくて、逃げたらよい、田舎にいる人々はわざわざ都エルサレムに入る必要は無い。

 山の中とは何処か。何処に逃げるのか。21:36「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」、逃げて、人の子の前に立つ。人の子の前に逃げる、人の子、主イエスの前に逃げる。

 主イエスは何処におられるのか。山の中。主イエスは山の中におられるから、山の中に逃げたらよい、山の中におられる主イエスのもとに逃げたらよい。21:37〜38「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」、主イエスは昼間はエルサレムの神殿において言葉を語り続けられました。夜はオリーブ畑と呼ばれる山の中で過ごされました。何をなさりにオリーブ畑と呼ばれる山の中に行かれたのかというと、祈るためです。このオリーブ畑と呼ばれる山の中には主イエスがいつもの祈りの場所としておられたゲツセマネの園がありました。主イエスは礼拝を欠かすことなく言葉を語り続けられ、祈り続けられました。
 
 21:36「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」、人の子、この世の終わりの日に再び来られる主イエスの前に私たちが立つ。何のために立つのか。コリントの信徒への手紙二5:10「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」、神の報復の日、神の怒りが降る時、私たちは主イエスの審きの座の前に立たされます。

 審きを受ける、などと言われると怖くなってしまいます。しかし、私たちは主イエスによる審きをびくびくしながら待っているのではありません。喜んで待っています。この世の終わりを恐怖におののきながら待つ必要はありません。私たちは既に主イエスの十字架の死と復活によって、光の子とされ、神の報復の日、神の怒りの時から救われ、終末の審きから救われているからです。

 だから、眼を覚まして祈りを献げ続けます、礼拝を献げ続けます。滅びることのない主イエスが語ってくださった言葉が語られ、聴かれる礼拝を献げ続けます。眼を覚まして祈りを献げ続けます。山の中に主イエスがおられる、ということは礼拝において主イエスがいてくださる、ということです。眼を覚ましておく、ということは、勿論、眠らない、寝てはいけない、などというようなことではありません。主イエスに対して眼を覚ましておく、しっかりと眼を開いて、視つめておくことです。

3.
 主イエスは最後の晩餐を弟子たちとともに摂られた直後、オリーブ畑と呼ばれる山の中に赴かれゲツセマネ園において祈りを献げられました。22:45〜46「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」、弟子たちは眠り込んでいました。主イエスは眠り込む弟子たちのために祈りを献げられ、十字架に架かってくださいました。主イエスは眠り込む私たちのために、しかし、祈りを献げられ、私たちに代わって十字架によって神の怒り、神の審きを引き受けてくださいました。この言葉を信じる者は審きを受けることがありません。この言葉を心も耳も眼も鈍くすることなく真っ直ぐに信じる者は、神の怒りが降ることはありません、神の審きを受けることがありません。

 確かに、私たちはいろいろなことに思い煩うことがあります。疲れて信仰生活に眠り込むこともあります。教会生活に冬眠してしまうことがあるかも知れません。しかし、そこでこそ、このように主イエスが繰り返し繰り返しこの世の終わりについて語られたことを、私たちは改めて真剣に受け止めることが求められています。

 天地が滅びても、私たち自身がこの地上での生を終えても、主イエスの救いの約束の言葉は滅びることはありません。神の救いの約束が滅びることはありません。私たちは心も体も光の子、主イエス・キリストのもの、神のものだからです。

―――――― 2020年 9月20日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編100:1〜5
讃 美 歌  137(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  出エジプト記12:1〜20(P.111)
      ルカによる福音書22:1〜2(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『思い掛けない救い』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  257(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏  
聖書:祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたら
よいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
          ルカによる福音書22:2

2020年 9月 5日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200905_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 9月 6日 主日礼拝式 ―――――
前 奏 (黙祷)
礼拝招詞 詩編34:2〜12
讃 美 歌 172(歌詞を黙読)
十 戒
主の祈り
聖書朗読 ダニエル書9:20〜27(P.1396)
ルカによる福音書21:20〜28(P.152)
祈 祷
信仰告白 使徒信条
説 教 『歩き始める』馬場康夫牧師
祈 祷
讃 美 歌 260(下)
献 金
祝 福
後 奏
聖書:このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げな
   さい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
           ルカによる福音書21:28 

2020年 9月 6日 主日礼拝説教要旨
ダニエル書9:20〜27、ルカによる福音書21:20〜28「歩き始める」

1.
 江戸時代、日本の教会は徹底的に潰されました。徳川幕府はキリシタンたちの信仰を捨てさせました。特に私がかつて住んでおりました長崎の教会にはとても厳しい大迫害が加えられました。今でも長崎市はローマ・カトリック教会の勢いがたいへん強い土地です。日本の国民の1パーセントがキリスト者ですが、長崎市は市民の8パーセントがローマ・カトリック教会の信者です。沢山のローマ・カトリック教会の信者が住んでいます。しかも、もう15代、16代も続いた信者がいます。プロテスタント教会は長くても未だ5代、6代です。しかし、ローマ・カトリック教会には15代、16代も続いた信者の家庭があります。全員潜伏キリシタンたちの末裔です。信仰を守るために隠れて逃げました。遠く五島列島まで逃げて、信仰を隠して守りました。

 宣教師もいません、神父もいません。その中でいったいどのようにして信仰を代々に伝えたのか。洗礼と祈り、そして信条・信仰告白でした。祈りを教え、信条、ニカイア信条と呼ばれる信条を代々に伝え、そして、洗礼を授けました。

 以前にもお話ししたことがありますが、潜伏キリシタンの子孫にこういう話しを聴いたことがあります。「自分たちの先祖が隠れて逃げて信仰を守り通してくれたから、今、自分にも信仰が与えられている。そのことは恵み。しかし、踏み絵を踏んで隠れた逃げた。そのことに後ろめたさを感じる。殉教した人々もいるけれども、自分たちの先祖は殉教しなかった。だから、自分という存在、しかもキリスト者としての自分という存在がある。」。こういう言葉です。隠れたこと、逃げたことは潔くない。沢山の人々が信仰を捨てないで殉教した。しかし、自分の祖先は転んだ、隠れた、逃げた、生き延びた。でも、そのおかげで自分は生まれ、しかも、自分に信仰が与えられた。複雑な心境を語った重い言葉です。

2.
 しかし、私たちの救い主 主イエス・キリストははっきりと語ってくださいました。ルカによる福音書21:21「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」、逃げたらよい。何も頑張る必要はない。逃げたらよい。なぜか。

 ルカによる福音書21:5〜38は主イエスがこの世の終わりについて語ってくださった言葉を記録しています。この世の終わりには、戦争、地震、飢饉が起り、自然災害、天変地異が襲う、いろいろな恐ろしいことが起る、偽預言者たち、偽キリストが出現して惑わす、大きな迫害が起こる。その時、堂々と闘うだけではなく、むしろ、逃げたらよい、と主イエスは語られました。

 しかし、逃げる時に気をつけることがある。21:8b〜9「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」、多くの人々が、自分こそ救い主である、キリストである、と名乗って現れる。もう終わりの日が近付いた、と語る。戦争と暴動が起こる、と予言めいたことを語る輩も登場する。しかし、怯える必要は無い、慌てる必要は無い。そのような偽キリストに付いて行くな。確かに、偽キリストが現れ、戦争や暴動が起こる、と語る人々が現れる。これが世の終わりが近づいたしるし。しかし、未だ終わりではない。このように主イエスは語られました。

3.
 逃げて行った人々は何をしたのか。使徒言行録8:4「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」、ただ、逃げて隠れた、というのではありません。信仰に生きる人々が逃げて行ったおかげで、福音が全世界に広がりました。

 エルサレムに誕生したばかりの教会に大迫害が襲った時、教会に生きる人々は逃げました。その結果、信仰が守られ、信仰が受け継がれてきました。教会が、信仰が、福音が都エルサレムから全世界に広がりました。江戸時代、キリシタンたちが逃げて、隠れて信仰を守ったから、その子孫に信仰が伝えられました。逃げることは決して恥ずかしいことではありません。勿論、時には堂々と闘わざるを得ないこともあるかも知れません。しかし、逃げて、守り、受け継ぐ、ということもあります。大切なことは、信仰を捨てない、ということです。教会に繋がり続けながら信仰を守る、ということです。逃げて、耐え忍ぶ、ということです。

主イエスはこう語られました。21:19「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」、どんなに厳しい状況にあったとしても、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさを抱えていたとしても、忍耐して欲しい、と主イエスは語られました。いや、忍耐できる、と語られました。なぜ忍耐できるのか。21:18「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」、あなたたちは髪の毛一本にいたるまでも神のものになっているからです。だから、耐え忍び、忍耐して、信仰を守り抜いてほしい、いや、忍耐できる、信仰を守り抜くことができる、と主イエスは語られました。

4.
 しかも、21:28「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」、と語られました。主イエスがここで約束してくださったことは審きではなく、滅びではなく、救いです、忍耐する時間が永遠に続くわけではありません。

 21:27「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」、主イエス・キリストが大いなる力と栄光とを帯びられ、天の雲に乗られ、再び来てくださることを、視ることができる、と約束してくださいました。主イエスが大いなる力と栄光とを帯びられ、天の雲に乗られ、再び来てくださる、ということは、誰の眼にも、救い主である、ということが明らかな御姿である、ということです。忍耐するのはその時まで。終末、この世が終わる時、主イエスが再び来てくださいます。忍耐するのはその時まで。その時、救いが完成します。と同時に、私たちは礼拝のたびごとに、主イエスにお眼に掛かっています。礼拝のたびごとに、忍耐という重荷を下ろして、再び頭を上げて歩き始めることができるのです。


―――――― 2020年 9月13日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編98:1〜9
讃 美 歌  162(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  詩編95:6〜11(P.934)
      ルカによる福音書21:29〜38(P.152)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『逃げることができる』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  224(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏   
聖書:天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
        ルカによる福音書21:33

2020年 8月30日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200830_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 8月30日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編95:1〜9
讃 美 歌  170(歌詞を黙読) 
聖書朗読  詩編74:9〜23(P.909) 
      ルカによる福音書21:7〜19(P.151)
祈  祷                          
説  教 『忍耐によるいのち』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  385(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏

聖書:しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
   忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。
           ルカによる福音書21:18〜19
 

2020年 8月30日 主日礼拝説教要旨
詩編74:9〜23、ルカによる福音書21:7〜19「忍耐によるいのち」
1.
 私たちが聴いておりますルカによる福音書21:7〜19、私たちの救い主主イエス・キリストがこの世の終わりについて語ってくださった言葉を記録しています。この世の終わりには、21:8b〜9「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」、多くの人々が、自分こそ救い主である、キリストである、と名乗って現れる。もう終わりの日が近付いた、と語る。戦争と暴動が起こる、と予言めいたことを語る輩も登場する。しかし、怯える必要は無い、慌てる必要は無い。そのような偽キリストに付いて行くな。確かに、偽キリストが現れ、戦争や暴動が起こる、と語る人々が現れる。これが世の終わりが近づいたしるし。しかし、未だ終わりではない。このように主イエスは語られました。
 続いて、21:10〜11「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」、人々と人々とが敵対する。国と国とが敵対する。国が混乱し、政治的な混乱が起る。大地震が起り、飢饉や疫病が流行し、恐ろしいことや天からのしるし、前兆がある。自然災害が起こり、天変地異が起こる。確かに、戦争、暴動、自然災害、天変地異が起こる、と言われると、私たちも恐れを抱きます。
 しかし、それよりももっと恐れていることを主イエスは語られました。21:12「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」、戦争や暴動、大地震、飢饉や疫病、自然災害、天変地異が起る前に弟子たちが迫害を受ける。この世の終わりに先立って弟子たちが迫害を受ける、教会が迫害を受ける。国の支配者である王や総督の前に引っ張り出されて裁きを受ける。弟子たちが裁かれ、教会が裁きを受け、キリスト者が裁きを受ける。しかも、王や総督といった支配者、権力者からだけではない。
21:16〜17「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」、家族からも裏切られ、殺され、全ての人々から憎しみを受ける、と主イエスは語られました。こういうことを言われると、私たちは恐れを抱きます。
2.
 ここを読んでいて、明らかな矛盾があることに気付いたと思います。主イエスは21:16「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。」、と仰いました。しかし、その直後、21:18「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」、と仰いました。一方で、いのちが奪われてしまう、と語られながら、他方で、髪の毛一本さえも失われることはない、と約束してくださいました。これはいったいどういうことなのでしょうか。
 ここで主イエスが語ってくださった言葉は矛盾であって矛盾ではありません。たとえ自分のいのちが奪われようとも、しかし、同時に、自分の髪の毛一本さえも失われることはない、ということを知っています。髪の毛一本にいたるまでも、神のものになっている私たちを神から奪い取ることはできません。
 主イエスは既にこう語ってくださいました。12:6〜7「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」、信仰に疲れ、耐え忍ぶことができなくなってしまい、途中で信仰を捨ててしまう人々がいました。事実、弟子たちは主イエスに従いながら、一度は主イエスを捨てました。しかし、そこでこそ、主イエスは宣言されます。髪の毛までも一本残らず数えられている、だから、恐れるな。
 弟子たちを屡々襲ったのが恐れでした。だから、主イエスが捕まえられた時、全ての弟子たちは逃げ去りました。自分たちが主イエスの仲間である、主イエスの弟子であることが明らかになるのを恐れました。だから、ペトロは、主イエスなど知らない、と三度も誓って言い張ったのでした。私たちを屡々襲うのがこの恐れです。あなた、教会へ行っているのですね、と言われることに、後ろめたさを覚える。キリスト者であることが明らかになるのをどこかで恐れる、狼狽える。
 だからこそ、主イエスは仰いました。21:19「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」、どんなに苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさを抱えていても、あなたたちは髪の毛一本にいたるまでも神のものになっている。だから、耐え忍び、忍耐して、信仰を守り抜いてほしい、と主イエスは語られました。
 信仰を与えられて生きることは大きな喜びです。しかし、闘いがあります。確かに、かつてのような迫害、信仰を持っているからといって、世の中の人々が私たちを寄って集って迫害し、そしり、憎しみ、殺すというようなことはないでしょう。しかし、日本において教会に対する目にはたいへん冷ややかなものがあります。誹られ、軽蔑されていることを感じます。そのような迫害に負けたくありません。迫害、と言うと少し大袈裟に聞こえるかも知れません。しかし、私たちを日曜日の礼拝から引き離そうとする、信仰から引き離そうとする、この世のすべてのはたらきは私たちに対する迫害と言っても間違いではありません。
 しかし、そのようなこの世の中との闘いだけではありません。いや、むしろ、自分自身との闘いがあります。さまざまな誘惑との戦いがあります。礼拝を献げるための闘いがあります。信仰を守るための闘いがあります。誰もが経験してよく知っています。そのような誘惑に負けたくありません。主イエスが21:19「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」、と仰っておられるのですから、耐え忍ぶことができればさいわいです。

―――――― 2020年 9月 6日 主日礼拝式 ―――――
前 奏 (黙祷)
礼拝招詞 詩編34:2〜12
讃 美 歌 172(歌詞を黙読)
十 戒 (小声で)
主の祈り (小声で)
聖書朗読 ダニエル書9:20〜27(P.1396)
ルカによる福音書21:20〜28(P.152)
祈 祷
信仰告白 使徒信条(小声で)
説 教 『歩き始める』馬場康夫牧師
祈 祷
讃 美 歌 260(下)(歌詞を黙読)
献 金 
祝 福
後 奏 
聖書:このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げな さい。

         あなたがたの解放の時が近いからだ。
           ルカによる福音書21:28
 

2020年 8月23日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200823_001_Sermon__02.mp3

―――――― 2020年 8月23日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編95:1〜9
讃 美 歌  171(歌詞を黙読) 
聖書朗読  列王記上8:27〜30(P.542)
      ルカによる福音書21:5〜11(P.151)
祈  祷                          
説  教 『終末への備え』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  298(歌詞を黙読)
執事任職式
日曜学校教師就任式
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。
   わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、
   『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
           ルカによる福音書21:8      



2020年 8月23日 主日礼拝説教要旨
列王記上8:27〜30、ルカによる福音書21:5〜11「終末への備え」
1.
 終活、最近では、自分自身の終末、死に備える、ということが当然のように語られるようになりました。一昔前までは、自分の死に備える、両親の死に備える、などというようなことは縁起が悪いこととして避けられてきました。いったい自分自身の終末、死に際してどのようなことが起こるのでしょうか。この世の終末にはいったいどのようなことが起こるのでしょうか。この世が終わる時がほんとうに来るのでしょうか。私たちは自分の人生がやがて終わる、この地上での人生がいつの日にか終わる、死ぬということを知っています。しかし、この世が終わるということについて、いったいどこまで本気にしているでしょうか。いつの間にかそのようなことは遠い遠い将来のことであって、自分が生かされている時にこの世が終わる筈がない、と思い込んでしまっているのかも知れません。勿論、私たち自身が生かされている時にこの世が終わるかどうか、私たちには分かりません。私たち自身の地上での死が先に来るのか、この世の終わりが先に来るのか、私たちには分かりません。

 しかし、自分の地上での人生が終わり、また、この世も終わる。終末、と呼ばれる出来事が自分自身の人生にも将来必ずあり、この世もまた将来必ず終わる。それだけは確実であると聖書は語っています。終末信仰、と呼ばれる信仰の失うことができない一つの筋道です。終末信仰が崩れると、私たちの日常の信仰の生活は乱れます。終末信仰が好い加減なものになると、礼拝の生活が乱れ、倫理が乱れます。

 私たちはこの説教の直前でいつものように使徒信条によって教会の信仰を告白したばかりです。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」、私たちの救い主主イエス・キリストがかしこ、今おられる天から再び来てくださって、その時、生きている人々ももう既に死んでしまった人々も審きを受ける。教会の信仰です。私たちに与えられている信仰です。使徒信条の中で終末信仰を言い表している部分です。終末、この世がどのようにして終わるのか。主イエスが再び来てくださって、所謂最後の審判を執り行われてこの世が終わる。私たちもこう信じています。

2.
 主イエスはこの世の終わりの秘密を明らかにしてくださいました。ルカによる福音書21:8〜11「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。』そして更に、言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』」、惑わされないように気を付けなさい。多くの人々がキリストの名を名乗って現れる。自分こそ救い主キリスト、と主張しながら登場して来る。もう終わりの日が来た、と言う。戦争があちらこちらで起こる、という噂を聴くに違いない。実際に、国と国、民族と民族が対立し、憎しみ合い、争い合い、戦争が起こる。さまざまなところで地震や飢饉が起こる。天変地異、自然災害が起こる。得体の知れない疫病、伝染病。しかし、慌てるな。恐れるな。そういう偽預言者たちについて行くな。確かに、これが世の終わりが近づいたしるし。しかし、未だ終わりではない。だから、慌てるな、偽キリストについて行くな、と主イエスはこの世の終わりの前兆を教えてくださいました。

 戦争と暴動。20世紀、世界は大きな戦争を2度も経験いたしました。21世紀に入り今もなお世界中の至る所で戦いがあります、戦争があります、テロがあります。主イエスが予告なさった通りに、国と国、民族と民族が対立し、憎しみ合い、争い合っています。さまざまなところで地震や飢饉が起こっています。天変地異、自然災害が続いています。今、まさに世界は得体の知れない疫病、伝染病、感染症との闘いを強いられています。厄介なことに、自分が救世主、救い主キリスト、と名乗る偽キリストが次々と登場しています。少なくない人々が惑わされ、右往左往しています。そういうことから言うと、既にこの世の終わりの前兆が始まっている、とも言えます。遅かれ早かれこの世の終わりが来ます。

3.
 そこで、21:33「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」、主イエス・キリストがお語りになったことは滅びない、事実。天地万物が滅びる時がくる、この世の終わりは確かにくる。しかし、このように語られた主イエスの言葉は滅びない、嘘偽りがない事実。

 だから、21:36「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」、人の子、即ち、主イエスの前に立つことができるようにいつも眼を覚まして祈っていなさい、と主イエスは語られました。これこそ終末への備えです。

いつも眼を覚まして祈っていること。礼拝と祈りです。信仰生活です。信仰を与えられて生きていることです。礼拝と祈り、信仰こそ、主イエスの再臨への、終末への唯一の備えです。

 私たちは主イエスの再臨をびくびくしながら待つのではありません。喜んで待っています。終末を恐怖におののきながら待つ必要はありません。私たちが終末の時、受けるべき筈であった審きを、主イエスが十字架によって身代わりに背負ってくださった、ということを信じているからです。ですから、私たちは既に主イエスによって終末の審き、最後の審判から救われています。だから、私たちは安心して終末を待つことができます。だから、偽キリストに惑わされることもありませんし、慌てる必要もありません。

 私たちにとって、終末、この世の終わりは決定的な滅びなのではありません。救いの完成の時です。私たちにとって、この地上での生の終わり、死もまた滅びではありません、終わりではありません。年を重ね、思うように体が動かなくなり、もの忘れがひどくなり、肉体の衰えを感じ、さびしくなることがあるかと思います。しかし、私たちにとって、死は滅びではありません、終わりではありません。エルサレムの神殿が崩れても、この世の終わりがきても、神の救いが崩れることはありません。私たちは心も体も主イエス・キリストのもの、神のものだからです。神とともにいきる永遠のいのちを戴いて生かされています。

―――――― 2020年 8月30日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編95:1〜9
讃 美 歌  170(歌詞を黙読) 
聖書朗読  詩編74:9〜23(P.909) 
      ルカによる福音書21:7〜19(P.151)
祈  祷                          
説  教 『忍耐によるいのち』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  385(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏 
聖書:しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
   忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。
           ルカによる福音書21:18〜19

2020年 8月16日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200816_001_Sermon_.mp3

 

―――――― 2020年 8月16日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  286(歌詞を黙読)      
聖書朗読  列王記上17:1〜16(P.561)
      ルカによる福音書21:1〜4(P.151)
祈  祷 
説  教  『いのちを与えてくださる神』
祈  祷       
讃 美 歌  333(歌詞を黙読)      
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるの
   を見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨
   二枚を入れるのを見て、 ルカによる福音書21:1〜2
 

   2020年 8月16日 主日礼拝説教要旨
       列王記上17:1〜16、
      ルカによる福音書21:1〜4
      「いのちを与えてくださる神」

1.
 ルカによる福音書21:1〜3a「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。…」、エルサレムの神殿にある賽銭箱、献金箱の前に沢山の人々が来て献金を献げていました。古今東西、神社仏閣、教会神殿があると、何処ででも見ることができる風景です。参拝者たち、礼拝者たちが献金を献げていました。献金を献げて、祈りを献げていました。その参拝者たちの中で、一方で、金持ちが沢山の献金を献げていたけれども、他方で、一人の貧しい寡婦、未亡人がレプトン銅貨二枚を献げた。レプトン銅貨というのは、当時、用いられていたローマの通貨のうち最小貨幣でした。1円玉です。今の日本のお金の価値から言うと100円ほどでしょうか、そのレプトン銅貨二枚を貧しい未亡人が献げました。

 しかし、21:3b〜4「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」、この未亡人は乏しい中から持っている生活費を全部献げました。僅かにレプトン銅貨二枚であったけれども、生活費全部を献げ尽くした未亡人の献金を私たちの救い主主イエス・キリストはとても喜んでくださいました。

 この出来事は、全財産を献げ尽くす、ということこそが信仰者の理想であり、この未亡人こそ献金の模範を示した、ということを伝えている出来事ではありません。貧しい人々の献金は富んでいる人々の献金よりも価値がある、貧しい人が僅かかも知れないけれどもお金を献げることは辛い、痛みが大きい、だから、それだけでも値打ちがある、献げものというのは金額の問題ではなく心の問題、量の問題ではなく質の問題、などいうようなことではありません。教会は、全財産を献げなさい、などと間違ったことを伝え続けてきたのではありません。教会は、はたらいては全財産を献げ尽くし、またはたらいては全財産を献げ尽くすところに誕生し、存在してきたのではありません。この聖書の言葉に聴いてきた教会は、教会に生きる人々は全財産を献げ尽くして、ひもじい思いをして、物乞いに生きてきたのではありません。それなら、いったい何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。

2.
 大切なことは、献げることは、献げた御方の傍らに自分自身を置くことです。21:4「生活費」と翻訳されている言葉が、いのち、と翻訳することができる言葉である、ということです。ですから、この未亡人はいのちそのものを神に献げました。いのちそのものを神にお委ねしました。神に全てをお委ねしました。心も体も何もかも全て神に委ねました。なぜ、この未亡人がいのちそのものを、心も体も全て神に差し出すことができたのか。

 鍵になる言葉は21:1「見ておられた」、21:2「見て」という言葉です。見ておられた、見て、と翻訳されている言葉は、じぃーとよく視る、という意味の言葉が用いられています。主イエスは人々が献金を献げるのをじぃーと観察するように御覧になっておられました。人々は献金を献げていったい何をしていたのかというと、言うまでもなく祈りです、礼拝です。主イエスは人々が献金を献げるようすを御覧になられながら、人々の祈りを聴いておられた、礼拝の姿勢をじぃーと御覧になっておられました。

 ということは、私たちが今日ここでこうして献げている礼拝を主イエスが眼差しを注いで御覧になっておられる、祈りを聴いてくださっておられる、ということです。主イエスが私たちが献げる祈りに耳を傾けてくださり、礼拝を御覧になっていてくださる。私たちにとってとても嬉しいことです。主イエスが私たちの全てを御存知でいてくださる、ということはありがたいことです。

 この未亡人は、主イエスが眼差しを注いでいてくださる、ということを確信していました。この未亡人は夫を失い、どんなにさびしい悲しい辛い思いの中で過ごしてきたことか。しかし、神殿から離れなかった、礼拝から、祈りから遠離っていませんでした。
この未亡人は他人の眼を気にすることがないばかりか、神がどう御覧になっておられるのか、ということからさえも解き放たれて、しかし、全てを神に委ねて生かされていた未亡人でした。絶大な信頼を神に抱いていました。主イエスはしっかりとこの寡婦、未亡人に愛の眼差しを向けていてくださいました。私たちもまた主イエスの愛の眼差しの中にとらえられて生きることができるのです。




―――――― 2020年 8月23日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編95:1〜9
讃 美 歌  171(歌詞を黙読) 
聖書朗読  列王記上8:27〜30(P.542)
      ルカによる福音書21:5〜11(P.151)
祈  祷                          
説  教 『終末への備え』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  298(歌詞を黙読)
執事任職式
日曜学校教師就任式
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わ
   たしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、
   『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
           ルカによる福音書21:8 

2020年 8月 9日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200808_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 8月 9日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  167(歌詞を黙読) 
聖書朗読  イザヤ書51:12〜16(P.1147)
      ルカによる福音書20:45〜47(P.150)
祈  祷             
説  教 『見栄を捨てて』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  339(歌詞を黙読)
転入会式
献  金
祝  福
後  奏
聖書:そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをす
   る。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることに
   なる。   ルカによる福音書20:47


     2020年 8月 9日 主日礼拝説教要旨
       イザヤ書51:12〜16
       ルカによる福音書20:45〜47「見栄を捨てて」
1.
 私たちの救い主主イエス・キリストが語ってくださった言葉の中でも最も厳しい言葉の一つが、今朝、聴いております20:45〜47に記されている言葉です。それは、20:47b「…このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」、と主イエスが明確に審きを語っておられるからです。誰が最も厳しい審きを受けざるを得ないのか。20:46a「律法学者に気をつけなさい。」、律法学者たちです。神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の信仰の指導者である律法の学者、聖書の学者たちです。しかし、律法学者は主イエスに厳しく非難されても当然の見るからにいかにも悪い人間、極悪非道な人間であったのではありません。むしろ、逆です。ユダヤの人々の中でも律法学者は信仰に厳しい、神の戒めを厳格に守ろうとした人々です、できるだけ信仰深く生きようと願った人々です。しかし、主イエスは神の戒めを厳格に守ろうとした人々が最も厳しい審きを受ける、と語られた。いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。

2.
 20:46〜47「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」、長い衣を纏って歩き回る。律法学者が着ていた長い服には房が付いていました。房とはいったい何かということについては、旧約聖書民数記15:38〜41に記されています。服の四隅に房を付けておき、その房を見るたびに神の戒めを思い起こしました。房のついた服を着て、神の戒めをいつも思い起こそうとしました。ところが、律法学者はその房を長くした、大きくしました。自分のためだったら、そんなに大きくする必要はありません。人々からよく見えるようにするためです。あの人はいつも神の戒めを覚えているのだなぁ、と人々に認めてもらうためです。

 広場での挨拶、というのは人々が集まって来る広場、たとえば、神殿の庭などで挨拶されることです。律法学者先生、と呼ばれ挨拶されることを喜びとしました。確かに、律法を説き、聖書を教える者として尊敬されることは間違っているわけではありません。しかし、律法学者は人々から褒め讃えられることを求めました。
さらに、会堂で上席に座ることを好む、神の前での礼拝の席で上座に座れることを喜びとしました。あなたは立派な信仰をもっているからどうぞ上座へ、と言われることを期待しました。あの律法学者先生はいつもきちんと座って礼拝している、立派に礼拝している、そう言ってもらいたかった。

 寡婦の家を食い倒す。未亡人たちの家を食い物にした。律法学者は聖書の専門家です。聖書には、未亡人を守りなさい、と屡々記されています。律法学者も当然その言葉を知っていた筈です。今日よりもっと厳しい時代に置かれていた、夫を失った妻です。小さな子どもたちを抱えていたかも知れません。律法学者は本気で律法に従って生きようと考えた人たちです。私たちよりも熱心に神の戒めに従おうとした人たちです。未亡人の家を訪ね、助けてあげようとしました。では、どこで間違ったのか。自分の名誉を求めました。自分はちゃんと未亡人に仕えている、未亡人を助けている。人々から、あの律法学者先生はきちんと律法に従って未亡人を助けている偉い先生だ、と呼ばれることを求めました。外面、かたちでは確かに未亡人に仕えているように見えるけれども、しかし、主イエスが御覧になると、結局、未亡人は自分が褒められることを目的とする材料にしか過ぎませんでした。

 見せかけのための長い祈り。律法学者は未亡人のためにも祈ったに違いありません。それこそ長い祈りを献げました。しかし、主イエスが最も厳しい審きを受ける、と仰らなければならないほどの間違いがあった。いったいどこにその過ちがあったのでしょうか。

3.
 見栄のため、見せかけのためです。礼拝を献げることも、祈ることも、未亡人を助けることも全て見栄のため、見せかけのためです。人々から誉められることを求めました。聖書を説き、聖書の言葉を教え、神の言葉に従って生きようとする時、人々に認められ、尊敬され、人々から誉められることを求めました。神が褒めてくださることを忘れた。神が報いてくださることを忘れてしまった。神が自分をどう御覧になっておられるか、ということよりも、人々の評価を気にした。言い替えると、偽善です。主イエスがこの地上での人生において一生掛かって戦われてきたことは偽善の罪です。

 主イエスは明らかに見栄を、見せかけを、偽善を捨てることを求められました。言い換えると、神の聖さを満たし、神の義しさを満たすことを求められた。神の聖さ、神の義しさに生きることを求められました。では、私たちは神の聖さを満たし、神の義しさを全うすることができるのでしょうか。できません。パウロが語っております。ローマの信徒への手紙3:10b〜18「…正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」、それなら、私たちは主イエスに、あなたたちも審きを受ける、と言われたままなのでしょうか。そうではありません。コリントの信徒への手紙一6:11「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」、主イエスが私たちを洗ってくださる、聖めてくださるのです。

4.
 ルカによる福音書20:45「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。」、主イエスは御自分の弟子たちに語られました。弟子たちも群衆も、そして、私たちもまた律法学者の仲間になる危険がありました。あなたたちも律法学者と同じ過ちを犯す、だから、気を付けなさい、と主イエスは私たちに向かって語られました。主イエスは、ただ単に、審きを語られて、人々を退けられたのではなく、私たちが気付かない偽善、罪に気付いてもらうために警告されました。

 主イエスは、人一倍厳しい審きを受けることになる、と警告されながら、しかし、主イエスはその審きの前に立ちはだかるようにして、御自身が十字架によって神の審きを受けてくださいました。そのようにして、私たちを聖めてくださり、私たちに神の義を与えてくださり、神とともに生きることができるようにしてくださったのです。



―――――― 2020年 8月16日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  286(歌詞を黙読)      
聖書朗読  列王記上17:1〜16(P.561)
      ルカによる福音書21:1〜4(P.151)
祈  祷 
説  教  『いのちを与えてくださる神』
祈  祷       
讃 美 歌  333(歌詞を黙読)      
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを
見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨
二枚を入れるのを見て、 ルカによる福音書21:1〜2 

2020年 8月 2日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200801_001_Sermon_.mp3

 

http://www.odj-ch.net/2020/200802_001_Sermon_.mp3

 

―――――― 2020年 8月 2日 主日礼拝式 ―――――
前  奏 (黙祷)                    
礼拝招詞 詩編34:2〜12 
讃 美 歌 234A(歌詞を黙読)            
聖書朗読 詩編110:1〜7(P.952)
     ルカによる福音書20:40〜44(P.150)
祈  祷                          
説  教 『真実の唯一の救い主』馬場康夫牧師 
祈  祷              
讃 美 歌 131(歌詞を黙読)
献  金   
祝  福
後  奏   

聖書:このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうして
メシアがダビデの子なのか。 ルカによる福音書20:44


     2020年 8月 2日 主日礼拝説教要旨
          詩編110:1〜7、
      ルカによる福音書20:40〜44
           「真実の唯一の救い主」

1.
 皆さんにとって救い主主イエス・キリストとはいったいどのような御方か。本当は全人類にとって避けて通ることができない問いです。あなたにとって主イエスとはいったいどのような救いを与えてくださる御方か。

 主イエスはこう問われました。20:41「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。』」、なぜ、人々は、メシア、キリストはダビデの子である、と言うのか、と問われました。不思議な問いです。こう終わっています。20:44「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」。ダビデ自身が、キリストを主、と呼んでいるのに、キリストがダビデの子なのか。言い換えると、主イエスは、キリストである御自分はダビデの子ではない、とお語りになりました。主イエスがダビデの子、ダビデの子孫であるのかそうではないのか、そのようなことは私たちには関係のない退屈な遣り取りがなされているように聴こえる言葉かも知れません。しかし、ここに記されていることはとても大切です。いったい何が問題になっているのか。一言で言えば、主イエスとはいったい誰か、どのような救いを与えてくださる御方なのか、ということです。しかし、この短い僅かに5節だけが問うていることではなく、ルカによる福音書全体が、いや、聖書全体が私たちに問うていることです。それほど大切な問いがここに記されています。ここで主イエスが語ってくださった言葉は私たちにとって決定的な意味を持ちます。

2.
 主イエスはいったい誰の子どもなのか、誰の子孫なのか。ダビデの子、ダビデの子孫。ダビデは神の民イスラエルを紀元前1000年から40年間治めたたいへん優れた王であり、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々はダビデ王のような力ある王の誕生を待ち続けていました。今も待ち続けています。主イエス御自身、神の子であるのにもかかわらず、ダビデ王の血筋を引いた母マリアとその夫ヨセフの子どもとして、この地上に遣わされました。ですから、一方で、主イエスはダビデの血筋を引いた御方としてダビデの子孫、ダビデの子です。

 しかし、ダビデ自身が、キリストを主と呼んでいる、神と呼んでいる。それなら、どうして、キリストはダビデの子なのか。ダビデは、キリストは自分がお仕えすべき主である、自分がお仕えすべき神である、と語っているのにもかかわらず、どうして、キリストはダビデの子である、と言えるのか。言い換えると、他方で、御自分はダビデの子ではない、と主イエスは語られました。謎めいた言葉です。

 確かに、主イエスはダビデの子孫、ダビデ王の血筋を引かれた御方です。ダビデの子に、ホサナ、ダビデの子と呼ばれることを受け入れられて、都エルサレムにお入りになりました。一方で、主イエスは御自分がダビデの子孫であられることを認めておられます。しかし、他方で、主イエスはダビデの子と呼ばれることを拒否なさることによって、ユダヤの人々が抱いているようなダビデの子、救い主主キリストではないことを明らかになさったのです。ダビデ王のように力を振るってローマ帝国の支配を打ち破るような王ではない、とはっきりと語られたのです。

3.
 それでは、いったい主イエスはどのような救い主主キリストなのか。いったい、どういう救いを与えてくださるのか。この問いにきちんと答えることによって、そこに信仰が生まれます。

 私たちも主イエスを救い主主キリストと信じています。私たちの国はローマ帝国に支配されているわけではありません。また、私たち自身が誰かに奴隷のように支配されているわけでもありません。しかし、私たちは時としてさまざまな思いに支配されてしまうことがあります。苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさを抱えることがあります。主イエスを信じたら、たちどころに病気が治り、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさから解放されるのでしょうか。勿論、そういうことがない、とは言えません。主イエスを信じたら平安になった、慰められた、励まされた。そういうことはいくらでもあります。しかし、ただ単に、もし、そういう救いだけを主イエスに求めているのであれば、かつてのユダヤの人々と変わりありません。別に主イエスでなくても構わない。私たちが求めている救いは主イエスでなければ与えられない救いである筈です。それはいったい何か。

 確かに、主イエスはダビデの子孫であることを喜んで引き受けてくださいました。しかし、ユダヤの人々が待ち望んでいたような単なるダビデの子ではありませんでした。ユダヤの人々が考えていたのとはまるで違ったしかたで、しかし、王として、救い主として来てくださいました。ユダヤの人々だけではなく、ローマ帝国に生きる人々も全世界の人々を救ってくださる救い主として来てくださったのです。主イエスはただダビデの子としてだけではなく、それを遥かに越えた御方として、神の子として、ユダヤの人々に真っ先に遣わされ、私たちのところにも来てくださったのです。ただ、ダビデの血筋を引かれるだけではなく、神の子の血筋を引かれる御方として、神御自身としてダビデの血筋の中に入ってきてくださり、ダビデの家、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々だけではなく、全ての人々を救いへと招いてくださる救い主主キリストです。

 しかも、人々が抱き続けた救い主の姿とは違うかも知れないけれども、人々の苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさをすべて抱え込んでくださる救い主として、ダビデの子孫として、しかし、神の子として私たちのところに来てくださったのです。

 私たちが求める救い、助けて欲しい、苦しいから助けてください、悩みがあるから助けてください、嘆きから助け出してください、悲しみから助け出してください、痛みがあるから助けてください、さびしさから助け出してください、そういう救いは本当の救いではないから、と語られて、私たちの祈りを退けられるような主イエスではありません。主イエスは私たちの切実な願い、叫び、祈りを聴いてくださり、なお、私たち人間に最も必要な救いを与えてくださる。それでは、その救いとはいったい何か。

4.
 クリスマスの物語が既に明らかにしています。マタイによる福音書1:21〜23「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」、罪からの救いです。罪から救われることによって、インマヌエル、神が私たちとともにいてくださる、ということが実現しました。罪の赦しのないところに、神とともなる人生はあり得ません。しかし、主イエスは私たちとともに生きてくださるためにこの地上に来てくださり、十字架に磔られてくださり、私たちの罪を赦してくださいました。そして、インマヌエルの恵み、神がともにいてくださる、という救いを私たちに与えてくださったのです。



―――――― 2020年 8月 9日 主日礼拝式予告 ――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  167(歌詞を黙読) 
聖書朗読  イザヤ書51:12〜16(P.1147)
      ルカによる福音書20:45〜47(P.150)
祈  祷             
説  教 『見栄を捨てて』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  339(歌詞を黙読)
転入会式
献  金  
祝  福
後  奏 
聖書:そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをす
   る。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることに
   なる。   ルカによる福音書20:47

2020年 7月26日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200726_001_Sermon_.mp3

 

―――――― 2020年 7月26日 主日礼拝式 ―――――

前  奏  (黙祷)                    

礼拝招詞  詩編95:1〜9

讃 美 歌  158(歌詞を黙読) 

聖書朗読  出エジプト記3:6(P.96)

      ルカによる福音書20:27〜40(P.150)

祈  祷                          

説  教 『死からの復活は確かにある』馬場康夫牧師

祈  祷        

讃 美 歌  320(歌詞を黙読)

献  金

祝  福

後  奏                          

聖書:この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であ

   り、復活にあずかる者として、神の子だからである。

           ルカによる福音書20:36

 

 

―――――― 2020年 8月 2日 主日礼拝式予告 ―――――

前  奏 (黙祷)                    

礼拝招詞 詩編34:2〜12 

讃 美 歌 234A(歌詞を黙読)            

聖書朗読 詩編110:1〜7(P.952)

     ルカによる福音書20:40〜44(P.150)

祈  祷                          

説  教 『真実の唯一の救い主』馬場康夫牧師 

祈  祷              

讃 美 歌 131(歌詞を黙読)

長老任職式、執事任職式

献  金   

祝  福

後  奏                          

聖書:このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうして

   メシアがダビデの子なのか。 ルカによる福音書20:44

2020年 7月19日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200719_001_Sermon_.mp3

 

―――――― 2020年 7月19日 主日礼拝式 ―――――

前  奏  (黙祷)                    

礼拝招詞  詩編66:1〜5           

歌  163(歌詞を黙読)                     

聖書朗読  創世記1:26〜31(P.2)

      ルカによる福音書20:20〜26(P.149)

祈  祷 

説  教  『神と応答する私たち』

祈  祷       

歌  339(歌詞を黙読)                   

献  金 

祝  福

後  奏 

 

 

 

―――――― 2020年 7月26日 主日礼拝式予告 ―――――

前  奏  (黙祷)                    

礼拝招詞  詩編95:1〜9

歌  158(歌詞を黙読) 

聖書朗読  出エジプト記3:6(P.96)

      ルカによる福音書20:27〜40(P.150)

祈  祷                          

説  教 『死からの復活は確かにある』馬場康夫牧師

祈  祷        

歌  320(歌詞を黙読)

献  金 

祝  福

後  奏