2020年 7月 5日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200705_001_Sermon_.mp3

 

―――――― 2020年 7月 5日 主日礼拝式 ―――――
前  奏 (黙祷)                    
礼拝招詞 詩編34:2〜12 
讃 美 歌 187(歌詞を黙読)            
聖書朗読 民数記12:2〜13(P.233)
     ルカによる福音書20:1〜8(P.148)
祈  祷                          
説  教 『私たちの人生の土台』馬場康夫牧師 
祈  祷              
讃 美 歌 288(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏  

       2020年 7月 5日 主日礼拝説教要旨
     民数記12:2〜13、ルカによる福音書20:1〜8
            「私たちの人生の土台」

1.
  ルカによる福音書20:1〜2「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。『我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。』」、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の信仰と政治の指導者たちである祭司長、律法学者たち、長老たちが主イエス・キリストに問うた。何の権威でこのようなことをするのか。明らかに腹を立てています。なぜか。一つは、主イエスが神殿の境内において人々に教え、福音を告げ知らされていたからです。神殿の境内において、いったい誰がお前に語ってよい、という権威を与えたのか。誰もいない。それにもかかわらず、なぜそんなに勝手なことをするのか。もう一つは、主イエスが縄で鞭を作られ、神殿の境内、庭において商売をしていた人たち、羊や牛をすべて神殿の境内から追い出され、両替人の金を撒き散らされ、その台をひっくり返されたからです。主イエスがエルサレムの神殿においてたいへん激しいことをなさり、とても厳しいことを語られていたからです。誰がそういうことをしてもよいという権威をお前に委ねたのか。主イエスが祭司長、律法学者たち、長老たちに問われてしまいました。本来、信仰は主イエス・キリストに問われ、神に問われたことに対して私たちが答えることです。しかし、祭司長、律法学者たち、長老たちはそれを逆転させてしまって、質問しました。いや、詰問した。これからさらにファリサイ派の人々、サドカイ派の人々が次々と登場し、主イエスに対して質問を繰り返します。分からないからどうぞ教えてください、という謙遜な思いではありません。主イエスが語られる言葉尻を捕らえ、主イエスを試し、主イエスの息の根を止めるためです。決して他人事ではありません。

2.
 20:3〜4「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』」。主イエスからこの問いを受けて、祭司長、律法学者たち、長老たちはいったいどうしたか。20:5〜7「彼らは相談した。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。「人からのものだ」と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。』そこで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。」、自己保身です。ヨハネは神が遣わしてくださった預言者である、と答えると、主イエスは、なぜ、ヨハネが語った言葉に聴き従い、御自分を受け入れなかったのか、と問われるだろう。逆に、ヨハネは神が遣わしてくださった預言者ではない、と答えると、群衆はヨハネを預言者だと思っているから怖い。それで、祭司長、律法学者たち、長老たちは、分からない、と逃げた。祭司長、律法学者たち、長老たちは、信仰の指導者たちです。分からない筈はない、知らない筈がない。しかし、分からない、と返答し、逃げた。なぜか。主イエスが問うてくださったこの問いに正しくきちんと答えると、自分たちが変わらざるを得なくなってしまうからです。主イエスからの問いは常に私たちに変わることを求める問いです。

 だから、祭司長、律法学者たち、長老たちはただ逃げただけではなく、この後、主イエスへの殺意をますます強くしていきました。自分たちが権威を失わないために、新しい権威であるイエスを殺す他ない、と考えた。主イエスの権威を受け入れることを拒んだ。主イエスが自分たちの人生に関わることを拒んだ。主イエスを捨てた。神を捨てた。主イエスが自分たちの人生にかかわられると不都合、自分たちが変わらなければならなくなってしまうから。だから、主イエスが語った言葉を捨てる、聖書に記されている言葉を聴かなかったことにする。

 主イエスの権威と祭司長、律法学者たち、長老たちの権威とがぶつかった。権威と権威、力と力とがぶつかった。私たちも権威を持っています、力を持っています。確かに、国を動かしたり、会社を動かしたり、社会を動かしたりする権威はないかも知れません。しかし、自分の人生、自分の生活は自分で決める、判断する権威を持っています、自由を持っています。家庭を動かす力、権威を持っています。この自由、権威と主イエス・キリストの権威とがぶつかることがある。そこでどうするのか、それが主イエスに問われています。

 私たちは主イエスの権威と私たちの権威がぶつかった時、主イエスの権威に服することができなくなってしまいます。主イエスの思いと私たち自身の思いとがぶつかった時、主イエスの思いを喜んで受け入れることができなくなってしまいます。聖書の言葉が語ることと私たちの考えがぶつかった時、素直に聖書の言葉に聴き従うことができなくなってしまいます。私たちもいつの間にか祭司長、律法学者たち、長老たちと同じ姿をとってしまいます。自分を変えようとしない。自分の生き方を変えようとしない。まことに頑固です。頑なです。謙遜になることが難しい。自分たちの権威、あるいは、自分たちの自由が侵される、と思ってしまいます。ここで私たち自身の罪が明らかになります。

 しかし、信仰を与えられて生きることは神の権威、主イエスの権威を認めることです。主イエスが私たちの人生に関わられることを認めることです。あなたは、主イエスの権威を認めるのか、そうではないのか、それが問われています。

3.
 いったい主イエスの権威とは何か。ヨハネによる福音書5:27「…裁きを行う権能を子にお与えになった。…」、ルカによる福音書12:5「…地獄に投げ込む権威を持っている方だ。…」、主イエスは私たちの罪を審く権威を持っておられ、私たちを地獄に投げ込む権威を持っておられる。しかし、また、同時に、ルカによる福音書5:24「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」、主イエスは私たちの罪を赦してくださる権威を持っておられる。主イエスは罪を赦す権威を持っておられる。私たちの罪を審き、私たちを地獄に投げ入れることから救ってくださる権威です。主イエスの権威は罪を赦す権威です。主イエスのこの権威を私たちは喜んで受け入れるのか。主イエス・キリストの罪を赦してくださる権威を謙遜になおかつ喜んで受け入れ、人生の土台として据えることができればさいわいです。


―――――― 2020年 7月12日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  164 
聖書朗読  詩編118:17〜29(P.958)
      ルカによる福音書20:9〜19(P.149)
祈  祷             
説  教 『役に立つ救い』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  257
献  金
祝  福
後  奏  

2020年 6月28日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200627_001_Sermon_mp3_.mp3

―――――― 2020年 6月28日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  195(歌詞を黙読)                     
聖書朗読 エレミヤ書7:8〜15(P.1188)
     ルカによる福音書19:45〜48(P.148)
祈  祷                                      
説  教  『教会は祈りの家』
祈  祷       
讃 美 歌  313(歌詞を黙読)                   
献  金
祝  福
後  奏



       2020年 6月28日 主日礼拝説教要旨
    エレミヤ書7:8〜15、ルカによる福音書19:45〜48

                                       「教会は祈りの家」

1.
 私たちの教会では新約聖書ルカによる福音書に私たちの救い主主イエス・キリストの御生涯を聴いてまいりまして、遂に19:45に入りました。19:45から主イエスの十字架の死に至る最後の一週間、受難週、と呼ばれる日々の出来事が始まります。正確に言えば、既に19:28から主イエスの十字架の死に至る最後の一週間の出来事が始まっておりましたから、19:45からは、神の民イスラエル、ユダヤの都エルサレムにおける最後の一週間が始まりました。主イエスはエルサレムに入られるとそのまま真っ直ぐに神殿に行かれました。19:45〜46「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。』」、後に、宮聖め、と呼ばれるようになることをなさいました。神殿を聖められ、商売人たちを追い出されました。主イエスは明らかに怒っておられます。

 神殿を聖められた出来事をルカによる福音書、マタイによる福音書、マルコによる福音書は主イエスの地上での御生涯の最後の出来事として記録しています。しかし、ヨハネによる福音書は第2章に、主イエスの仕事始めとして神殿を聖められた出来事を記録しています。主イエスは二度エルサレム神殿の聖めをなさったことになります。伝道の最初と最後に神殿の聖めをなさったということにたいへん大きな意味があります。神殿は神を拝むところ、神に祈りを献げるところです。私たちにとって教会、礼拝、祈りです。その祈りを献げ、礼拝を献げる教会堂、神殿を主イエスは聖められました。礼拝に相応しく整えられました。神を拝む、ということはいったいどういうことなのか、神に祈りを献げる、ということはいったいどういうことなのか、ということを教えてくださいました。伝道の最初と最後に教えてくださいました。それだけに、主イエスが重んじておられたのが神殿であり、礼拝である、祈りである、ということがよく分かります。

2.
 主イエスは家畜を売り買いしている人々、両替人を追い払われるたいへん乱暴なことをなさいました。なぜか。

 神殿の庭で商売をしていた人々がいたからです。牛、羊、鳩を売ったり、両替をする商売は神殿へ詣でに来た人々のための特別な商売でした。当時、イスラエル、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。日常の生活においてものの売り買いの時に用いるお金はローマ帝国のお金でした。ローマ皇帝は神の子、と刻印された貨幣を用いざるを得ませんでした。そのようなお金を神殿に献げるわけにはいきません。それで、神殿に献金を献げる時にはローマ帝国のお金をイスラエル、ユダヤのお金に両替する必要がありました。

 牛、羊、鳩を売る者。神殿において礼拝を献げる人々は自分の罪の身代わりの犠牲の動
物を献げました。犠牲の動物を献げる、それが神殿における礼拝、神を拝むことでした。犠牲の動物を献げることが旧約聖書における礼拝でした。犠牲の動物、たとえば、牛、羊、鳩を献げて、「この動物が自分の罪の身代わりになって死んでくれますから、罪をお赦しください」、このように祈って礼拝を献げました。

 主イエスがエルサレムに入られた時はユダヤ三大祭の一つ過越祭が始まろうとしていた時でしたから、沢山の人々が集まっていました。そのような中で主イエスは羊、牛、鳩を追い出され、両替人のお金を散らされ、商売の道具をひっくりかえされ、縄で鞭を作って追い出され、人々を厳しく戒められました。なぜか。

3.
 19:46「彼らに言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。』」、祈りの家である神殿が強盗の巣になってしまった、商売の家になってしまった、と嘆いておられます。ただ、神殿の庭において、まるで強盗のように法外な手数料を取って両替をし、法外な値段で羊、牛、鳩を売買していることがけしからん、というわけではありません。商売人や両替人が神殿に詣でる人々からお金を巻き上げていたのではありません。

 では、誰が強盗のような商売をしていたのか。神殿に詣でる人々です。商売人や両替人、神殿に詣でる人々が神と商売していた。強盗のような心で。まるで神と取り引きしているかのように祈りが献げられ、礼拝が献げられていた。旧約聖書に記されている定めに従って犠牲の動物を献げ、規定通りの献金を献げ、それで、神からの救いを得た、と安心して思い込んでしまう。犠牲の動物を献げることによって買える安心、お金を献げて神からの救いの保証を取り付けた、と安心して思い込んでしまう。そのためには何日もかけて巡礼の旅をし、いくらでもお金を積む。その姿勢が、その心と体が強盗に似ている。主イエス・キリストが与えてくださろうとしておられた神との平和を求めず、ローマ帝国による支配からの解放という平和を求める人々の心と体が強盗に似ていました。これが主イエスの涙、悲しみと結びついた怒りでした。

4.
 主イエスがエルサレムに入られ、神殿を聖められた時はユダヤ三大祝日のうちの一つ過越祭の時でした。過越祭が始まる時、小羊が屠られました。しかも、神殿の境内において屠りました。主イエスは、今、その神殿を聖められ、羊、牛、鳩を追い払われた。ヨハネによる福音書は主イエスとはいったい誰かということをこう語っています。ヨハネによる福音書1:29「世の罪を取り除く神の小羊」、1:36「神の小羊」、最後の預言者ヨハネが語った言葉です。主イエスは神の小羊、世の罪を取り除いてくだる神の小羊である。神の審きを過ぎ越させる小羊のように、主イエスが十字架に赴かれることによって、私たちに臨むべき筈であった罪の裁きを身代わりに背負ってくださり、神の審きを過ぎ越させてくださいました。主イエスは御自分が過越の羊、神の審きを過ぎ越させる羊になることを、羊、牛、鳩を追い払われることによって明らかにしてくださったのです。もう小羊は要らない、もう小羊を屠る必要はない。小羊の血ではなく、主イエスの十字架の血潮によって、私たちは聖められて生きることができるようになりました。神の家、教会に繋がりながら神とともに生きることができるようになったのです。


―――――― 2020年 7月 5日 主日礼拝式 ―――――
前  奏 (黙祷)                    
礼拝招詞 詩編34:2〜12 
讃 美 歌 187(歌詞を黙読)            
聖書朗読 民数記12:2〜13(P.233)
     ルカによる福音書20:1〜8(P.148)
祈  祷                          
説  教 『私たちの人生の土台』馬場康夫牧師 
祈  祷              
讃 美 歌 288(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏 

2020年 6月21日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200621_001_Sermon_mp3_.mp3



―――――― 2020年 6月21日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  187 
聖書朗読 エレミヤ書5:1〜25(P.1182)
     ルカによる福音書19:28〜44(P.147)
祈  祷                             
説  教 『せっかく神が訪ねてくださったのに』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  249
献  金
祝  福
後  奏

     2020年 6月21日 主日礼拝説教要旨
 エレミヤ書5:1〜25、ルカによる福音書19:28〜44
        「せっかく神が訪ねてくださったのに」

1.
 私たちの救い主主イエス・キリストの御生涯を記録している四つの福音書はそれぞれの立場から主イエスの御生涯を描いています。ここに記されている言葉の中でルカによる福音書にしか記されていない言葉があります。それは、19:41〜42「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。』」、主イエスが泣かれた、という言葉です。主イエスが声を上げて泣かれた。なぜか。

 都エルサレムを御覧になって涙なさいました。このエルサレムにおいて僅か五日後に、主イエスは十字架に磔られて殺されてしまわれます。主イエスが泣かれたのは御自分が十字架に磔られた時ではありませんでした。エルサレム全体を見渡すことがおできになった時、それだけで主イエスの涙が溢れ出しました。神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の中でも都エルサレムに住む人々、神殿に詣でている人々の姿を御覧になって、主イエスは涙なさった。ちょうど日曜日の礼拝のために教会に集っている私たちを御覧になって涙なさった、というようなことが起こりました。

 この時、主イエスとともに涙した人は誰もいませんでした。主イエスの悲しみを理解した人は誰一人としていませんでした。弟子たちが主イエスと一緒に泣いたわけではありませんでした。群衆はエルサレムの神殿に詣でることができる、エルサレムの神殿においてユダヤ三大祭りの一つ過越祭を献げることができる喜びで満たされていました。しかし、そこに真の信仰がない、ということを主イエスは御覧になりました。

 確かに、19:38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」、と人々は讃美し、主イエスを新しい王として迎えました。しかし、僅か五日後にいったいどうなるのか。この讃美を歌った同じ群衆が、主イエス十字架に磔て殺せ、と叫び、弟子たちは主イエスを見捨てる。平和をもたらしてくださる主イエスが訪ねてくださったにもかかわらず、結局、主イエスを捨ててしまう、救い主として迎えることができない。主イエスが与えてくださる平和など不必要、自分たちの生活に欲しい平安、自分たちが求める救いを与えてくださらない救い主など人々にとって不必要でした。地上での自分たちの生活に平安がない、闘いが続く、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさ、病、不条理がある。この地上での生活に平安を与えてくださる救いだけを主イエスに求めていた。だから、主イエスを捨てた。決して他人事ではありません。

 しかし、まことに不思議なことに主イエス・キリストが捨てられることによって、神との間に横たわっていた断絶、罪が取り去られました。こんな救い主などいらない、と思って主イエスを捨てた。主イエスを十字架に磔て、殺した。ところが、この主イエスの十字架の死と復活によって私たちと神との間に横たわっていた罪が取り去られ、神とともに生きる道が備えられました。

2.
 19:44b「…神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」、神が訪れてくださった、神が主イエスによって訪ねてくださった。それにもかかわらず、人々はわきまえませんでした。いや、ただわきまえなかっただけではなく、主イエス殺す、神を殺す。これが主イエスの涙でした、悲しみでした。

 エルサレム、エル・シャローム、平和の基礎と呼ばれながら、平和をもたらしてくださる主イエスを捨てる。平安を与えてくださる主イエスを捨てる。神の訪れ、神が訪ねてくださったことを知らない人々に悲しみを覚えられました。それは主イエスが人々を愛するがゆえにです。

 考えてみると、クリスマスの時、ユダヤのベツレヘムにおいて主イエスがお生まれになられた時、いったい誰が主イエスを出迎えたでしょうか。人々は主イエスを出迎えませんでした。信仰の指導者たちも主イエスを出迎えませんでした。主イエスの御降誕をわきまえませんでした。いや、旧約聖書に預言されていることをわきまえていても、主イエスを救い主として出迎えませんでした。ルカによる福音書は、2:7b「…宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」、と記しました。誰も出迎えませんでした、神の訪れを知りませんでした。

 ですから、主イエスの涙、悲しみはオリーブ山からエルサレムに向かっての下り坂に差し掛かかられ、エルサレム全体を視渡すことができたこの時だけのものではありませんでした。主イエスがこの地上に来てくださった時以来のものでした。主イエスが一生懸命伝道なさる。しかし、なかなか人々に伝わらない悲しみ、言葉が受け入れられない悲しみ。御自分に一度は従って来ながら、暫くすると、遠離り、見捨てられてしまう悲しみ。私たち教会が味わう悲しみと同じです。私たちも一生懸命祈り、伝道に励みます。けれども、なかなか人々に救いの言葉が伝わらない、主イエスが受け入れられない悲しみを経験いたします、伝道の困難を経験します。それは主イエスが経験なさった悲しみと同じです。私たちも悲しみます。

 このように、私たちは自分自身が悲しむことをよく知っています。しかし、私たちは時に人を悲しませているということを忘れてしまいます。いや、私たち自身が主イエスを悲しませていることを忘れてしまいます。聖書は何時でも何処でも主イエスが泣いておられる、ということを書いているわけではありません。しかし、聖書の言葉は至る所で主イエスの涙、悲しみ、神の悲しみを指し示しています。

 エルサレム、それは神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々が住んでいるところです。神の民が住んでいるところを主イエスが御覧になって、涙を流されました。エルサレム、神の民である私たちが住んでいるところです。主イエスは私たちを御覧になって、涙を流しておられる。主イエスが語り続けてくださった言葉を捨ててしまうからです。私たちが神が求められる聖さ、義しさ、愛の深さ、まことの自由に生ききることができないことを主イエスは御覧になって、声を上げて泣いておられる。主イエスに悲しみをもたらしたのは、他でもない神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々であり、私たちです。

3.
 主イエスは、平和の道、平和、平安をもたらしてくださる唯一の真実の道である御自分を拒み、神が御自分によってせっかく訪ねてくださったことも弁え知らない人々、私たちの愚かさを背負われて十字架への道を歩み抜かれました。しかし、まことに不思議なことに、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神とともに生きる唯一の真実の道が確立され、私たちは主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって神とともに生きることができるようになったのです。この恵みを受け入れた私たちは、かつて主イエスを悲しませていた私たちは、もう主イエスを悲しませていない。天に大きな喜びがあります。

―――――― 2020年 6月28日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  195                     
聖書朗読 エレミヤ書7:8〜15(P.1188)
     ルカによる福音書19:45〜48(P.148)
祈  祷                                      
説  教  『教会は祈りの家』
祈  祷       
讃 美 歌  313                   
献  金
祝  福
後  奏  

2020年 6月14日 主日礼拝式


http://www.odj-ch.net/2020/200614_001_Sermon_mp3_.mp3

―――――― 2020年 6月14日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  ヨハネによる福音書4:23〜24
讃 美 歌  130           
聖書朗読 ゼカリヤ書9:9〜10(P.1489)
     ルカによる福音書19:28〜40(P.147)
祈  祷                          
説  教 『平和を与えてくださる王』馬場康夫牧師 
祈  祷              
讃 美 歌  224
献  金
祝  福
後  奏


       2020年 6月14日 主日礼拝説教要旨
 ゼカリヤ書6:9〜10、ルカによる福音書19:28〜40
           「平和を与えてくださる王」

1.
 今朝、私たちが聴いておりますルカによる福音書19:28〜40に記されている出来事は主イエス・キリストのエルサレム入城、と呼ばれます。、19:35〜36「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。」、王が凱旋する時、馬に乗ってエルサレムに入るように、主イエスは驢馬の子に乗られてエルサレムにお入りになられました。神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々は新しい王を出迎えるようにして、自分たちが着ていた服を道に敷いて、主イエスを新しい王として大歓迎しました。
 これまでエルサレムに入城してきた王は馬に乗る、軍馬に乗る威風堂々とした王でした。しかし、ローマ帝国が遣わした王でした。人々は苦々しい思いで新しい王を出迎えざるを得ませんでした。しかし、主イエスは違う。生粋のユダヤ人の血筋を引かれる王、王ダビデでの血筋を引かれる待ちに待った自分たちの新しい王。だから、人々は喜んで主イエスを新しい王として喜んで出迎えました。
 主イエスは驢馬の子に乗られることによって御自分が王であることを、しかも、馬、軍馬に乗られる王ではなく、戦、剣、武力によって王として君臨なさるのではなく、驢馬、平和をもたらしてくださる王であることを明らかにしてくださいました。
聖書において、平和とは何よりも神がともにいてくださることです。神との和解です。もともと神と私たちとの間には飛び越えて行くことができない川が流れていた。深い、広い川。こちら側から泳いで渡って行くことができない、橋を架けることもできない罪という川。神との断絶です。ですから、神が罪人と一緒におられるということはあり得ません。しかし、主イエスが橋を架けてくださった。神との断絶に梯子を架けてくださった。それが十字架です。主イエスが私たちの罪の審きを身代わりに十字架によって背負ってくださり、審きを引き受けてくださった。主イエスの十字架の死と復活によって、神と私たちとの深い断絶に橋が架かった。神が私たちとともにいてくださることができるようになった。主イエスが与えてくださる救いとは平和とは、神との平和。それゆえの平安です。
 人々が考えていたのとはずいぶん異なった救いであったに違いありません。神がともにいてくださる、という大きな平和、平安を与えてくださろうとしておられたのにもかかわらず、人々はこの直後主イエスを捨てます。
 しかし、主イエスが捨てられることによって、神との間に横たわっていた断絶、罪が取り去られました。こんな救い主などいらない、と思って主イエスを十字架に送り込んだ。ところが、この主イエスの十字架の死と復活によって私たちと神との間に横たわっていた罪が取り去られ、神とともに生きる道が備えられました。まことに不思議な神の救いのわざです。

2.
 主イエスを王として出迎えた人々はこう叫びました。19:37〜38「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。』」、主イエスは神が遣わしてくださった救い主である、王である、神に平和、神に栄光あれ、と讃美いたしました。しかし、主イエスを大歓迎して出迎えた大群衆が僅か数日後に何と叫んだのか。イエスを十字架に磔て、殺せ、と叫び続けました。人々の一度は自分たちの王として主イエスを出迎えたにもかかわらず、なぜ、僅か数日後に、イエスを十字架に磔て、殺せ、と叫び続けたのか。
 自分たちが視た全ての奇跡のことで喜び、神を讃美していたからです。ヨハネによる福音書はこう記しています。6:14〜15「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」、かつて人々が主イエスを王に祭り上げようとした理由は、主イエスがなさってくださったしるし、奇跡でした。たった5つのパンと2匹の魚とで男だけで5000人の人々をお腹一杯食べさせてくださったからでした。たった、今、自分たちが奇跡を経験したからでした。主イエスが自分たちの必要としているパンを与えてくださったからでした。人々が主イエスを王にしようとしたのは、主イエスが人々の求めているもの、望んでいるものを与えてくださったからです。主イエスは人々の願いを聴いてくださり、病を癒され、養ってくださいました。それで、人々は主イエスを王にしようとしました。しかし、主イエスは王に祭り上げようとした人々の願いを拒絶なさいました。だから、お一人でまた山へ退かれました。
 本来、王は私たちが仕えるべき御方です。王は自分の必要な時にだけ呼んだら来てくれる召使ではありません。私たちが仕えるべき御方です。ところが、うっかりすると、主イエスを、私たちが呼んだら、いつでも助けてくださる王として、まるで召使のように主イエスを取り扱ってしまう。確かに、主イエスは祈りを聴いてくださる王です。しかし、いつでも呼べば助けてくださる王、私たちに仕えてくださる王、とうっかり思い込んでしまう。自分が必要としている時にだけ自由に呼び出すことができる王、と思ってしまう。

3.
 確かに、主イエスは私たちが仕えるべき筈の王です。ところが、この王である主イエスが私たちに、しかも、十字架によって仕えてくださいました。ここに、主イエスの愛が、神の愛があります。
 この主イエスの入城を、私たちの心への、生活への、人生への入城を拒否するならば、私たちには救いはない。神の国の王が、天国の王が態々私たちのところにまで出向いて来てくださっているのにもかかわらず、主イエスの私たちの人生への入城を拒む時、私たちには救いはありません。主イエスを私たち人生の王としてお迎えする時、私たちは、神とともなる人生を送ることができるのです。

―――――― 2020年 6月21日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  187 
聖書朗読 エレミヤ書5:1〜25(P.1182)
     ルカによる福音書19:28〜44(P.147)
祈  祷                             
説  教 『せっかく神が訪ねてくださったのに』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  249
献  金
祝  福
後  奏

教会堂での主日礼拝再開のお知らせ

教会堂での主日礼拝再開のお知らせ

2020年 6月 7日

小田原十字町教会長老会・執事会

 

 サムエル記下24:25「そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。」

 

1.

 4月7日に日本政府から出されましたCOVID19(新型コロナウイルス)による感染拡大防止のための「緊急事態宣言」が、神奈川県は5月25日に解除されました。しかし、楽観的な予断が許されない状況であると認識し、慎重に見守ってまいりました。6月7日、定期長老会会議を開催し、主日礼拝再開などについて協議いたしましたので、お知らせいたします。

 

2.

 6月14日から教会堂に集まっての主日礼拝を再開いたします。しかし、当分の間、3月に献げました主日礼拝のかたち(聖餐執行中止。讃美歌、十戒、主の祈り、使徒信条は黙読)をさらに簡略したかたちによって献げます。主日礼拝への出席をお待ちしています。

 止むを得ず家庭において主日礼拝を献げざるを得ない教会員・求道者の便宜を図って、引き続きホームページに土曜日に録音した礼拝説教等と説教要旨を記載いたします。大人数での主日礼拝出席に不安を感じる教会員・求道者は土曜日の録音の時間(午前10時から)に出席なさってくださってもかまいません。

 

3.

 教会堂に入られましたら、手洗い、消毒をお願いいたします。教会堂内では必ずマスクを着用してください。また、十分に換気をしながら礼拝を献げます。密接、密集、密閉にならないように、礼拝堂だけではなく、集会室、分級室も用いて主日礼拝を献げますので、着席については十分な間隔を開けてくださいますようにお願いいたします(礼拝堂ではベンチに色画用紙を置いてない座席にお座りください。)。受付記名の際には自分の筆記用具で記名なさってください。また、できるだけ自分の聖書・讃美歌を持参ください(交読詩編は用いません)。6月28日までの礼拝式順は裏面に掲載いたしましたので、このプリントをご持参ください。

 主日礼拝終了後、お互いに安否など問いたいと思いますが、できるだけ教会堂の外でお話しくださり、速やかに帰路にお着きくださいますようにお願いいたします。

 

4.

  基礎疾患や体調に不安のある方、特に発熱、咳、くしゃみ、下痢、嘔吐などの症状のある方、さらに、ご家族や職場、友人、知人に同じような症状がある方は主日礼拝出席をお控えください。決して無理をなさらないでください。

 

5.

 日曜学校も6月14日から再開いたしますが、午前9時からの礼拝だけです。分級は、暫くの間、休止いたします。祈祷会は6月17日から再開いたします。

 引き続き、主日礼拝後の諸集会は原則として全て中止します。延期されています定期教会総会開催の日時について、後日、改めてお知らせいたします。

 

 

―――――― 2020年 6月14日 主日礼拝式 ―――――

前  奏  (黙祷)                    

礼拝招詞  ヨハネによる福音書4:23〜24

歌  130           

聖書朗読 ゼカリヤ書9:9〜10(P.1489)

     ルカによる福音書19:28〜40(P.147)

祈  祷                          

説  教 『平和を与えてくださる王』馬場康夫牧師 

祈  祷              

歌  224

献  金

祝  福

 

日曜学校礼拝 ルカによる4:16〜21 説教「神さまの恵みを告げるイエスさま」

祈祷会 出エジプト記9:1〜35 17日(水)午前10:00

 

―――――― 2020年 6月21日 主日礼拝式 ―――――

前  奏  (黙祷)                    

礼拝招詞  詩編29:1〜9

歌  187 

聖書朗読 エレミヤ書5:1〜25(P.1182)

     ルカによる福音書19:28〜44(P.147)

祈  祷                             

説  教 『せっかく神が訪ねてくださったのに』馬場康夫牧師

祈  祷        

歌  249

献  金

祝  福

 

日曜学校礼拝 出エジプト記4:10〜12 説教「説教は神さまの語り掛け」

祈祷会 出エジプト記10:1〜29 24日(水)午前10:00

 

―――――― 2020年 6月28日 主日礼拝式 ―――――

前  奏  (黙祷)                    

礼拝招詞  詩編66:1〜5           

歌  195                     

聖書朗読 エレミヤ書7:8〜15(P.1188)

     ルカによる福音書19:45〜48(P.148)

祈  祷                                      

説  教  『教会は祈りの家』

祈  祷       

歌  313                   

献  金

祝  福

 

日曜学校礼拝 コリントの信徒への手紙一2:11〜14

       説教「私たちのことをよく知っておられる神さま」

祈祷会 出エジプト記11:1〜10 7月1日(水)午前10:00

 

2020年6月7日(日)主日礼拝式

 

http://www.odj-ch.net/2020/200606_001_Sermon_mp3_.mp3


―――――― 2020年 6月 7日 主日礼拝式 ―――――
─招き・悔い改め──                    
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編34:2〜12              
讃  詠  546                    
十  戒                          
主の祈り (564)                   
交読詩編  106 詩編第106編28〜38節     
讃 美 歌   57
─神の言葉─────                    
聖書朗読 出エジプト記4:10〜17(P.98)
     ルカによる福音書19:11〜27(P.146)
祈  祷                          
讃 美 歌  191                
信仰告白  使徒信条(566)              
説  教 『恐れを越える神の国』馬場康夫牧師 
祈  祷          
讃 美 歌  298
聖  餐  202 新型コロナウィルス感染拡大予防のために中止
─応答・祝福・派遣─                  
献  金
頌  栄  539                   
祝  福                          
後  奏
報  告

       2020年 6月 7日 主日礼拝説教要旨
 出エジプト記4:10〜17、ルカによる福音書19:11〜27
           「恐れを越える神の国」

1.
 今朝、聴いております聖書の言葉は新約聖書ルカによる福音書19:11〜27に記されている言葉です。ムナの譬え話、と呼ばれる譬え話です。19:12〜13「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。』」、主イエス・キリストの時代、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々はローマ帝国に支配されていましたから、自分たちで勝手に王を立てることはできませんでした。ローマ皇帝は神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の中でも立派な家柄の人、身分の高い人、権力と富のある人、何よりもローマ帝国にとって都合の良い人をユダヤの領主、王に任じました。王として、領主として立てられる人は任命を受けるためにローマまで出掛けて行きました。そこで、主人の留守中に僕たちに自分の土地や財産を委ねて、商売をさせることがありました。ここでは、10人の僕たちが主人から10ムナ与えられて、主人の留守の間、商売をし、はたらきました。

2.
 19:15「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」、王位を受けて帰ってきた主人は僕たちがどれだけ儲けたかを調べるために、10人の僕たちを呼び出しました。最初の僕は1ムナで10ムナを稼ぎました。次の僕は1ムナで5ムナを儲けました。3番目の僕は、主人から預かっていた1ムナを布に包んでしまっておいた、と報告しました。なぜか。

 19:21「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」、主人が預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人で恐かったからだ、と返答しています。しかし、本当にそうか。主人は自分の留守中に、10人の僕たちに10ムナを預けました。僕たちを信頼して自分の財産の一部を預けています。しかも、最初の僕が10ムナを稼いだのに、2番目の僕が5ムナしか儲けることができなかった、と言って、叱っていません。

 19:22〜24「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。
『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』」、1ムナをこの僕から取り上げて、10ムナ持っている者に与えなさい、と命じました。僕に与えられていた1ムナが取り上げられてしまいました。この僕は主人から預かった1ムナを着服したわけではありません、浪費したわけではありません、軽んじたわけでもありません。大切にしまっておきました。しかし、主人は、この僕から預けておいた1ムナを取り上げた。ずいぶん厳しい裁きです。どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。
主人は預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人だ、と自分勝手に思い込み、主人に対して恐怖を抱いたからです。言い換えると、主人の信頼を裏切ったからです。この主人は10人の僕たち全員に絶大な信頼を寄せています。自分が王位を受けて帰って来るまでの間、10人の僕たちに全てを任せました。

3.
 しかも、僕たちの周りの状況は決して良くない。19:14「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。」、国民、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々は新しく王座に着くことになる僕たちの主人を憎んでいたので、この人が王になることを望んでいなかった。そこで、僕たちの主人が王位を受けるためにローマに出掛けている間に、ローマに使いを送って、この人に王になられると困る、とローマ皇帝に伝えさせた。

10人の僕たちは新しく王になる人の僕たちです。10人の僕たちはイスラエルの国、ユダヤの国に残っています。ところが、あのような人が自分たちの王になると困る、お前たちの主人が自分たちの王になると困る、と考えた人々がこの10人の僕たちの周りに沢山いた。それで、わざわざローマにまで使いの者を遣わして、あのような人が自分たちの王になると困る、とローマ皇帝に直訴させた。ですから、お前たちはあの主人の僕、と悪口を言われる中、この10人の僕たちは多くの敵に囲まれ、孤軍奮闘しなければなりませんでした。1ムナを用いはたらいても商売に失敗し、お前たちはあの主人の僕たちだ、と言われて相手にされないことぐらいあっても不思議ではありませんでした。だから、3番目の僕はただ主人が恐かっただけではありません。世間を恐れた。

4.
 なぜ、主イエスはこの譬え話を語られたのでしょうか。19:11「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」、と記されているように、直ぐにでも神の国が到来する、と人々が考えていたからです。来週、聴くことになる19:28〜には、主イエスがエルサレムにお入りになる出来事が記されています。人々が熱狂して主イエスを救い主、新しい王として迎えています。なぜ、主イエスを大歓迎したのか。主イエスはローマ帝国にとって都合の良い王ではなくて、ローマ帝国による支配を打ち破ってくださる自分たちにとって都合の良い新しい王である、と自分勝手に思い込んだ人々が主イエスを王、神の民イスラエルの王、ユダヤの王、神の国の王として祭り上げたからです。新しい王である主イエスがイスラエルの都エルサレムに入城なさって神の国が完成する、と思った。この地上に神の国、天国が完成する、と錯覚したからです。しかし、直ぐにでも神の国が到来する、神の国が完成する、と思い込んだ人々が日々の生活を軽んじ始めるようなことがあっては困る、畑を放り出し、家畜を放り出し、店を放り出したら困る、とお考えになった主イエスはこの譬え話を語られました。

5.
 この譬え話に登場して来る立派な家柄の人、王位を受けて帰って来る人は主イエスです。王位を与えてくださる御方は父なる神です。10人の僕たちは弟子たち、私たちです。主人を憎んでいた国民は主イエスを神の子救い主と受け入れない神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々、そして全世界の人々です。

 主人が王位を受けるために遠いところへ旅立ち、留守になる。王位を受けに行った主人がやがて帰って来る。明らかに主イエスの御姿です。これから、主イエスはエルサレムにお入りになられます。十字架に磔られて、殺されてしまいます。三日目に御復活され、四十日後に天に昇られ、その後、弟子たちの前からも、私たちの前からも御姿を隠されたままです。弟子たちに視える御姿で、私たちの眼に視える御姿でとどまり続けられたわけではありません。主人、主イエスが遠いところ、父なる神のもとへ旅立たれ、この地上に長く不在になってしまわれた。しかし、やがて帰ってこられる。この地上に再び来てくださる。最後の審判を執り行われる。

 その主人、主イエスは御自分の不在の間、御自分の仕事を弟子たちに委ねられた、教会に委ねられました。私たち自身に1ムナが委ねられました。主イエスは絶大な信頼を僕である私たちに掛けてくださって、御自分の財産を委ねられました。私たちは1ムナを委ねられた主イエスの僕です。

 3番目の僕が主人に叱られ1ムナを取り上げられてしまったのは、主人は預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人だ、と自分勝手に思い込み、主人に対して恐怖を抱き、失敗することを恐れたからでした。主イエスが恐い。同時に、人々に、お前も主イエスの僕だ、と言われることを恐れたからでした。まさに主イエスなど知らない、主イエスの仲間ではない、と三度も誓って言い張った一番弟子ペトロがそうでした。

 主イエスは御自分の仕事を全て私たちに委ねてしまわれるほど、私たちに対して絶大な信頼を寄せておられます。私たち教会は主イエス・キリストの代わりをしています。主イエス・キリストの権威を委ねられました。私たちがはたらいている間、主イエスは安心しておられます。

 私たちは3番目の僕のように、主イエスを預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人だ、と自分勝手に思い込み、主イエスに対して恐怖を抱いている僕ではありません。恐怖を抱きながら1ムナを布に包んでしまっておいた僕ではありません。主イエスは私たちを冷酷に取り扱われるような主人ではありません。

 確かに、一方で、何の恐れなしに神に近付くことは困ったものです。人間が罪を背負っているからです。しかし、他方で、神に対して恐怖を抱く必要はありません。私たちはただ神に対して恐怖を抱いている僕ではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の審きが済んでしまった私たちに求められていることは、恐怖ではなくて神への畏怖畏敬、畏れ畏まることです。

 主イエスを王として迎え入れた私たちは、最早、主イエス御自身が語られた言葉を恐れる必要はありません。主イエスを神の子救い主と信じて生きる時、恐怖を抱く必要はありません。必ず、良い忠実な僕よ、と主イエスが迎えてくださる日が来ます。

2020年 5月31日 ペンテコステ祝日礼拝式

――― 2020年 5月31日 ペンテコステ祝日礼拝式 ――
─招き・悔い改め──                    
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編34:2〜12
讃  詠  546                    
十  戒                          
主の祈り (564)                   
交読詩編  106  詩編第106編19〜27節
讃 美 歌   56                    
─神の言葉─────                    
聖書朗読 創世記19:12〜29(P.26)
     ルカによる福音書19:1〜10(P.146)
祈  祷                          
讃 美 歌  194                    
信仰告白  使徒信条(566)              
説  教 『あなたの家に泊まりたい』
祈  祷           
讃 美 歌  338
聖  餐  207 新型コロナウィルス感染拡大予防のために中止
─応答・祝福・派遣─                    
献  金  
頌  栄  539                    
祝  福                          
後  奏                  
報  告            

     2020年 5月31日 ペンテコステ祝日礼拝説教要旨
創世記19:12〜29、ルカによる福音書19:1〜10「あなたの家に泊まりたい」
1.
ルカによる福音書19:1〜10に記されているザアカイの物語、日曜学校の子どもたちも聴くことが好きな物語の一つです。19:1〜4「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」、ザアカイ、という名前は、義しい人、という意味で、もともとザカリアという名前です。ザカリアと言えば、私たちが聴き続けてまいりましたルカによる福音書の冒頭に記されているクリスマスの出来事を想い起こします。主イエスの母マリアの親戚エリサベトとその夫ザカリアの間に与えられた子どもが最後の預言者ヨハネでした。ヨハネの父親の名前がザカリアでした。ザカリアは祭司をしておりました。エリコに住むザアカイはそのザカリアと同じ名前をもともと持っていました。ザアカイはひょっとしたらもともとは祭司の家系にあった人なのかも知れません。そのザアカイが今は徴税人をしていました。
 神の民イスラエルの人間、ユダヤの人間でありながら徴税人になる、ということはいったいどういうことを意味したのか。ザアカイ自身も他の徴税人と同じように定められた税金にさらに上乗せして私腹を肥やすということをしていたようです。しかし、それだけではありません。神の民イスラエルの人間、ユダヤの人間でありながら徴税人になる、ということは神の民イスラエル人、ユダヤ人としての誇りを捨てることを意味しました。だから、19:7「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」、ザアカイは罪深い男。確かにこの言葉は正しい。正しくないのは呟いた人々全員が罪人である、ということです。ザアカイだけではない、全ての群衆が罪人です。群衆もその罪人の一人なのであって、主イエスをお迎えしなければ、本当は自分たちも救われない。しかし、そのことに気が付いていない。
2.
 主イエスは無花果桑の木に登っているザアカイを視付けられ、19:5「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」、と語られました。主イエスはザアカイの名前を御存知でした。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい、と翻訳されている言葉は、今日、あなたの家に泊まらなければならない、という言葉です。19:6「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」、ザアカイは主イエスが語られた通り、急いで木から降りてきました。主イエスの招きに素直に応じ、喜んで主イエスを迎え入れました。
主イエスが未だ何も命じておられないのにもかかわらず、19:8「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」、全財産の半分を貧しい人々に施す、誰かから騙し取っていたら4倍にして返すことを約束しました。なぜ、ザアカイはこのようなことを申し出たのか。
 主イエスはザアカイに何かを命じられたわけではありません。ザアカイは、ただ、今日、私はあなたの家に泊まらなければならない、と語られた主イエスの言葉を聴いただけです。主イエスは罪人ザアカイの家に入って宿をとられた、と呟いた群衆の言葉を聴いただけです。その通り、自分は罪人だ。自分が罪を背負って生きてきたことを知った。自分は今まで私利私欲に生きていた。施すこともせず、献げることもしないで不正な取り立てをしてきた。その具体的な罪に気が付きました。しかし、主イエスによって赦されている喜びを知ったのです。
 だから、ザアカイは全財産の半分を貧しい人々に施す、不正な取り立てをした人々に4倍にして返すことを約束しました。主イエスに招かれている喜びを本当に知ったから、赦されて生かされている喜びを知ったから、赦されている大きさを知ったからです。喜んで施し、献げ、返そうと決心しました。
 私たちも献げます。施します。お金を献げ、自分の時間を献げます。与えられた賜物、お金、時間、能力、体力などを教会のために、人々のために用います。それは誰かから強いられてではありません。主イエスに訪ねていただいた喜びを知ったから、赦されている大きさを知ったから、主イエスに救っていただいた感謝からです。
 ルカによる福音書は、18:18〜30、金持ちの議員の物語を書きました。主イエスは金持ちの議員に対して、全財産を売り払って貧しい人々に施すことを求められました。金持ちの議員は不正を重ねて財産を築き上げたわけではありません。真面目に一生懸命はたらきました。それにもかかわらず、主イエスは全財産を売り払って貧しい人々に施すことを求められました。
 しかし、主イエスはザアカイに何も命じておられません。同じように経済的に豊かだった二人にどうしてこのような違いが生じたのか。金持ちの議員は自分の財産を主イエスの招きよりも重んじてしまいました。しかし、ザアカイは、自分が、19:10「失われたもの」であることに気付きました。では、いったい誰から失われていたのでしょうか。
 神から失われていました、主イエス・キリストから失われていました。神の民として本来あるべきところにいませんでした。神とともに生きることをしていませんでした、主イエス・キリストとともに生きることをしていませんでした。聖書の言葉に基づいて生活することを止めていました。決して他人事ではありません。
 ルカによる福音書は既に15:1〜32において、いなくなった1匹を捜し求める羊飼いの物語、どこかへいってしまった銀貨1枚を捜し求める女性の物語、そして、二人の放蕩息子を待ち続ける父親の物語を記しました。このザアカイの物語も同じです。神は御自分のところからいなくなった羊1匹を、銀貨1枚を、息子を、そして、ザアカイを捜し求め続けておられるのです。
 今日、私はあなたの家に泊まらなければならない、泊まる、と翻訳されている言葉は、ただ単に一泊宿泊する、二泊宿泊する、という意味ではありません。ずぅーと留まり続けてくださる、という意味です。主イエスがザアカイの人生にこれからずぅーと留まり続けてくださる。ということから言うと、ザアカイは私たち信仰に生かされている者、教会に繋がって生かされている者の先輩です。主イエスはザアカイだけではなく、私たちとともにずぅーといてくださる。
 最後に、主イエスはザアカイに仰いました。19:9「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」、ザアカイだけではない。ザアカイの家族全員に救いが与えられた。
 家族の中で自分一人で礼拝に集わざるを得ない人たちがいます。むしろ、多いかも知れません。私たちは信仰を未だ与えられていない家族のことが気掛かりです。主イエスは私たちに宣言してくださいました。今日、救いがこの家を訪れた。今日、私はあなたの家に泊まらなければならない。

教会堂での主日礼拝再開までの予定(第一信)

教会堂での主日礼拝再開までの予定(第一信)

2020年 5月27日

小田原十字町教会長老会・執事会

 

神は羽をもってあなたを覆い

翼の下にかばってくださる。

神のまことは大盾、小盾。

夜、脅かすものをも

昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。

暗黒の中を行く疫病も

真昼に襲う病魔も

あなたの傍らに一千の人

あなたの右に一万の人が倒れるときすら

あなたを襲うことはない。

 詩編91:4〜7

 

 4月7日に日本政府から出されましたCOVID19(新型コロナウイルス)による感染拡大防止のための「緊急事態宣言」が、神奈川県は5月25日に解除されました。しかし、小田原市立病院での院内感染を中心とした感染拡大が続きましたので、小田原市内は楽観的な予断が許されない状況であると認識しています。

 

 それで、5月31日のペンテコステ祝日礼拝と6月7日主日礼拝は、従来通り、礼拝堂に集まっての礼拝は休止します。週報と説教要旨をお送りしていますので、教会員の皆さまはそれらに従って家庭において主日礼拝をお献げください。また、土曜日に牧師が一人で礼拝を献げ、礼拝録音を土曜日中にホームページにupいたしますので、主日礼拝と同時刻に音声を聴きながら、主日礼拝をお献げください。

 

教会堂に集まっての礼拝再開について、長老会執事会では既に検討に入っており、6月第一週が終わるまでの小田原保健福祉事務所管内(小田原市、南足柄市、湯河原町など)の新規感染者の推移を考慮ながら、6月7日に開催いたします定期長老会会議において最終的な判断をいたします。定期長老会会議後、改めて、教会堂に集まっての礼拝再開について、お知らせいたしますので、今、暫くお待ちくださいますようにお願いいたします。

5月24日主日礼拝

─招き・悔い改め──                    
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編96:1〜7
讃  詠  546                    
十  戒                          
主の祈り (564)                   
交読詩編  106  詩編第106編13〜18節
讃 美 歌   55                    
─神の言葉─────                    
聖書朗読  詩編123:1〜4(P.969)
      ルカによる福音書18:35〜43(P.145)
祈  祷                          
讃 美 歌  158                    
信仰告白  使徒信条(566)              
説  教 『眼と耳』
祈  祷           
讃 美 歌  453
─応答・祝福・派遣─                    
献  金  
頌  栄  543                    
祝  福                          
後  奏              
報  告    
     
                2020年 5月24日 主日礼拝説教要旨
 詩編123:1〜4、ルカによる福音書18:35〜43「眼と耳」
1.
 ルカによる福音書18:41a「何をしてほしいのか」、私たちの救い主主イエス・キリストが私たちに問うておられます。何をしてほしいのか、何が望みか。新型コロナウイルス感染拡大を終息させてください、一緒に礼拝を献げることができる日を一日もはやく与えてください。この祈りが私たちの願いです。何をしてほしいのか、と主イエスが私たちに問うてくださっています。主イエスは私たちの願い、祈りを待っていてくださる。まことにありがたいことです。何をしてほしいのか、何が望みか。
2.
 ここに眼の視えない人が登場していました。道端で物乞いをして生活していました。昔も今も世界中に沢山の病を背負った人々がいます。病と闘い、飢えと闘って生きている人々がいます。いや、その中で死んでいく人々がいます。なぜ、こんなに悲惨なことがあるのか、と心を痛めます。私たちも信仰者として、世界を覆うさまざまな苦しみ、悩み、嘆き、痛み、悲しみ、さびしさ、病などがなくなってほしい、と切実に思います。しかし、私たちは眼が視えないわけではない、耳が聴こえないわけではありません。
 しかし、そこでこそ、私たちが忘れることができないことは、私たちも癒しを必要としている者、眼を開いていただく必要のある者である、ということです。私たちこそ眼が閉じていた者、耳が閉じていた者です。主イエスに対して眼が閉じており、それゆえに、隣人にも眼が閉じていました。主イエスが語ってくださる言葉に対して耳が閉じており、それゆえに、隣人の叫びにも耳が閉じていました。
 弟子たちがまさにそうでした。弟子ヤコブとヨハネとが主イエスに、マタイによる福音書20:21「何が望みか」、と問われた時、弟子たちは何を願ったのか。ヤコブとヨハネの母親を通してでしたが、主イエスの右に座りたい、左に座りたい、主イエス・キリストの傍らの第一の席に座りたい、と願いました。
 しかし、本当は弟子たちも弟子たちの母親も眼を開けてください、視えるようにしてください、とお願いすべきでした。イエスさまが語ってくださった言葉が未だよく分かりません。イエスさまの十字架の死と復活を未だよく信じることができません。だから、視分ける眼を与えてください、聴き分ける耳を与えてください。主イエスの本当の御姿を視る眼差しを与えてください、聴き分ける耳を与えてください。このように弟子たちも祈るべきでした。勿論、私たちもです。
 かつて、生まれながら眼が視えなかった人の眼を主イエスが開いてくださった時、主イエスはこう語ってくださいました。ヨハネによる福音書9:41c「しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」、今、あなたたちが、『見える』、と言い張るところに、あなたたちの罪がある。弟子たちは、主イエスが語ってくださったこの言葉を思い起こすべきでした。弟子たちは、自分たちはもう長い間主イエスの弟子として一緒に生活してきたのだから、主イエスが語ってくださった言葉はもう十分よく分かっている、という思いがあったに違いありません。
 しかし、イエスさま、あなたの御姿を正しく視詰める眼を与えてください、イエスさま、あなたが語ってくださる言葉を正しく聴き取る耳を与えてください。この祈りこそ私たちの祈りです。
 主イエスを視詰める眼に、主イエスが語ってくださった言葉を聴き取る耳に、いろいろなものが覆い被さっているから視えなくなってしまう、聴くことができなくなってしまいます。それゆえに、隣人を正しく視詰めることができず、隣人の言葉を正しく聴き取ることができず、悲痛な叫びをも聴き取ることができなくなってしまいます。私たちが身につけてしまった知識や経験が主イエスの御姿を視えなくしていることもあります。私たちの苦しみや悲しみが主イエスが語ってくださった言葉を聴こえなくしていることもあります。私たちの我が儘な思いや罪が主イエスが与えてくださる救いを視えなくし、聴こえなくしてしまいます。
 だから、主イエスは既に6:41〜42「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」、と語られました。私たちの眼に丸太棒のような太い木が横たわっているから、視ることができなくなっています。私たちの眼に丸太棒、罪が横たわっているから、主イエスの御姿を正しく視詰めることができなくなってしまいます。主イエスが語ってくださった言葉を正しく聴き分けることができなくなってしまいます。隣人を正しく視詰めることができず、隣人が語る言葉を正しく聴き取ることができなくなってしまいます。だから、眼を開いてください、視えるようにしてください、耳を開けてください、聴くことができるようにしてください、との祈りは私たちの祈りです。
 最後に、ここに記されている出来事は眼の視えない人が癒された奇跡の物語です。癒しの奇跡ならこれまでにも何度も記されました。しかし、ルカによる福音書はわざわざ記しました。それはいったいなぜか。
 主イエスは間もなくエルサレムに入られます。エルサレムにおいて主イエスを待っているのは十字架です。人々から苦しみを受けられ、罵られ、辱められ、十字架に磔られる。多くの群衆は十字架の主イエスに躓いた。どうして十字架で死ぬような者が、神の子救い主なのか、と思って主イエスを捨てました。
 信仰の眼差しがなければ十字架の救い主主イエスは分かりません。だから、信仰の眼差しが与えられることが必要です。
 主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください、私たちに先立って眼の視えない人が主イエスに祈りを献げました。主イエスは立ち止まってその祈りを聴いてくださいました。だから、私たちも祈りを献げることができます。私の眼を開いてください。主イエスを視詰める眼差しを確かにしてください。救いを視詰める眼差しを確かにしてください。主イエスが語ってくださった言葉を聴く事が出来るようにしてください、神の言葉を聴き分ける耳を与えてください。この祈りは私たちの祈りです。
――――――― 5月24日〜30日の祈りの課題 ――――――
今年の主イエス・キリストの昇天記念日は5月21日、聖霊降臨祝
日(ペンテコステ)は5月31日、教会をたててくださり、私たち
に信仰を与えてくださり、さまざまな賜物、慰めを与えてくださる
聖霊のおはたらきに感謝して。

今週の祈りの課題

★ 今週の祈りの課題 5月17日〜23日
休校を余儀なくされている学校の生徒、学生の心身ともなる健康が支えられ、

教育、保育、介護、医療に携わる全ての人々の健康が支えられるように。