2020年 9月20日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200919_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 9月20日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編100:1〜5
讃 美 歌  137(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  出エジプト記12:1〜20(P.111)
      ルカによる福音書22:1〜2(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『思い掛けない救い』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  257(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたら
   よいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
              ルカによる福音書22:2


2020年 9月20日 主日礼拝説教要旨
出エジプト記12:1〜20、
ルカによる福音書22:1〜2「思い掛けない救い」

1.
 ルカによる福音書22:1〜2「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」、主イエス・キリストを殺すためにどうしたらよいかと考えていた。驚くべき言葉です。礼拝を献げている私たちの思いとは全く逆の思い、主イエスを殺そうと考えていた、という言葉が、しかし、今朝、私たちの教会の礼拝のために与えられた聖書の言葉、神の言葉です。いったい私たちとどのような関係があるのでしょうか。

 祭司長たちや律法学者たち、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の信仰の指導者が主イエスを殺したい、と思うようになった。それはいったいなぜか。

 主イエスが力ある奇跡をなさり、力ある言葉を語ってくださる。だから、自分たちの信仰の指導者としての地位が危なくなる、ということもありました。嫉み、僻み、妬みです。しかし、ただそれだけではなく、むしろ、主イエスが自分たちの生活の中に入ってこられると、困る、と思ったからです。なぜ、困るのか。主イエスが語ってくださった言葉に従って自分が変わらざるを得なくなるからです。だから、自分たちの生活の中に主イエスが語ってくださった言葉が入り込んでくることを、ほとんど反射的に拒絶してしまう。私たちは自分が変わる、ということについて、知らず知らずのうちに激しく抵抗します。自分が変わるのではなく、主イエスを変えようとする、神の言葉を変えようとします。主イエスが語ってくださった神の言葉に従って、自分を変えるのではなくて、自分の言葉に従って、神を変えようとします。このようにして、祭司長たちや律法学者たちと同じ姿をうっかりすると私たちもとってしまいます。

 なぜ、ユダヤの群衆は一度は主イエスを信じておきながら、結局、主イエスを殺そうとしたのか。自分たちが期待しているものを与えてくださる救い主ではない、と判断したからです。多くのユダヤの群衆が主イエスに期待していた救いは、ローマ帝国の支配を打ち破ってくださる救いでした。しかし、主イエスはローマ帝国の支配を武力で打ち破ろうとなさったのではない。主イエスが与えてくださろうとしておられた救いは、全ての人間を支配している罪の審きからの救い、死からの救いでした。だから、ユダヤの群衆は主イエスを見捨てたのです。自分たちが満たされるかどうか、自分たちが満足するかどうか。結局、自分たちの願いが満たされなかったから、主イエスを十字架に送り込んだ。自分たちが満足しなかったから、主イエスを十字架に磔た。決して他人事ではありません。自分が満たされたかどうか、満足したかどうか。

2.
 祭司長たちや律法学者たちはいつ主イエスを殺そうとしていたのか、というと、過越祭と除酵祭の時でした。ユダヤ三大祭のうちの一つで、最大の祭の時、礼拝の時でした。その礼拝への備えをする時に主イエスを殺す計略が始まっていました。しかし、過越祭と除酵祭の時はよろしくない、ユダヤの民衆が未だ主イエスをキリストと信じていたから、大混乱になってしまう。ですから、祭司長たちや律法学者たちの計略は過越祭の時以外の時に、除酵祭の時以外の時に主イエスを殺すことでした。しかし、主イエスの御計画、神の御計画は人々の謀略に反して、過越祭の時に、除酵祭の時に十字架に磔られることでした。

 弟子イスカリオテのユダに裏切られ、一番弟子ペトロにも裏切られ、全ての弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう裏切りの中で、主イエスは十字架に磔られてしまわれました。しかし、それが大祭司たちや律法学者たちの謀略に反して神の御計画でした。神の御計画は主イエスが過越祭の時に、除酵祭の時に十字架に磔られてしまわれること。それはいったいなぜか。

 ヨハネによる福音書がその冒頭において最後の預言者、洗礼者ヨハネの言葉を書き記しました。ヨハネによる福音書1:29「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」、1:36「見よ、神の小羊だ」、主イエスは神の小羊、世の、私たちの罪を取り除いてくださる神の小羊である。いったいなぜ主イエスは神の小羊なのか。

 最後の預言者ヨハネ、洗礼者ヨハネは、主イエスの母マリアの親戚エリサベトの夫で、祭司のザカリヤの子どもでした。ヨハネは祭司の息子として、神殿での礼拝や儀式をよく知っていたに違いありません。過越の祭はじめ、神殿では、毎日毎日、人々の罪のために犠牲の小羊が献げられていました。ヨハネは主イエスをその小羊と視たのです。この主イエスこそほんとうに人々を罪から救うことができる犠牲の小羊である。

 ヨハネは、過越の祭の小羊を思い起こして、神殿で毎日献げられる小羊を思い起こして、主イエスを神の小羊、世の罪、私たちの罪を取り除く神の小羊、と呼びました。かつて、エジプトにいた神の民イスラエルの人々を神の審き、死から救い出したのは過越の小羊の血でした。同じように、この主イエスこそが私たち人間の罪に対する神の審きから救ってくださる御方である、とヨハネは指し示しました。

 かつて過越の小羊の血が神の民イスラエルの人々を救ったように、主イエスの十字架の血潮が私たちを救ってくださいました。過越の祭がイスラエル人々がエジプトの奴隷生活から救い出されたことを絶対に忘れてはならないこととして献げてきた礼拝であったのと同じように、教会において執り行われる聖餐は主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の奴隷、罪の審き、死から救い出されたことを絶対に忘れてはならないこととして、教会が2000年間守り続けてきた儀式です。主イエスの十字架の死と復活による救いを記念する、想い起す儀式です。私たちが聖餐に与ることができるのはまことにさいわいです。COVID−19による疫病が終息し、ともに聖餐に与ることができる日を祈りつつ待ちたい。

 主イエスは、ヨハネによる福音書10:14〜15「わたしはよい羊飼いである。…わたしは羊のためにいのちを捨てる」、と語られました。羊飼いである主イエスが私たちのために羊となってくださり、身代わりに死んでくださった。この主イエスの十字架の死と復活のおかげで、私たちは神とともに生きることができるようになりました。主イエスは私たちが神とともに生きることができるように御自分の体である教会をつくってくださいました。教会に生きる時、私たちはしっかりと神に繋がって生きることができるのです。


―――――― 2020年 9月27日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編103:1〜5
讃 美 歌  139(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  ゼカリヤ書11:7〜15(P.1491)
      ルカによる福音書22:1〜6(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『イスカリオテのユダの謎』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  240(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏
聖書:しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。  ルカによる福音書22:3