5月24日主日礼拝

http://www.odj-ch.net/2020/200523_001_Sermon_mp3_.mp3
─招き・悔い改め──                    
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編96:1〜7
讃  詠  546                    
十  戒                          
主の祈り (564)                   
交読詩編  106  詩編第106編13〜18節
讃 美 歌   55                    
─神の言葉─────                    
聖書朗読  詩編123:1〜4(P.969)
      ルカによる福音書18:35〜43(P.145)
祈  祷                          
讃 美 歌  158                    
信仰告白  使徒信条(566)              
説  教 『眼と耳』
祈  祷           
讃 美 歌  453
─応答・祝福・派遣─                    
献  金  
頌  栄  543                    
祝  福                          
後  奏              
報  告    
     
                2020年 5月24日 主日礼拝説教要旨
 詩編123:1〜4、ルカによる福音書18:35〜43「眼と耳」
1.
 ルカによる福音書18:41a「何をしてほしいのか」、私たちの救い主主イエス・キリストが私たちに問うておられます。何をしてほしいのか、何が望みか。新型コロナウイルス感染拡大を終息させてください、一緒に礼拝を献げることができる日を一日もはやく与えてください。この祈りが私たちの願いです。何をしてほしいのか、と主イエスが私たちに問うてくださっています。主イエスは私たちの願い、祈りを待っていてくださる。まことにありがたいことです。何をしてほしいのか、何が望みか。
2.
 ここに眼の視えない人が登場していました。道端で物乞いをして生活していました。昔も今も世界中に沢山の病を背負った人々がいます。病と闘い、飢えと闘って生きている人々がいます。いや、その中で死んでいく人々がいます。なぜ、こんなに悲惨なことがあるのか、と心を痛めます。私たちも信仰者として、世界を覆うさまざまな苦しみ、悩み、嘆き、痛み、悲しみ、さびしさ、病などがなくなってほしい、と切実に思います。しかし、私たちは眼が視えないわけではない、耳が聴こえないわけではありません。
 しかし、そこでこそ、私たちが忘れることができないことは、私たちも癒しを必要としている者、眼を開いていただく必要のある者である、ということです。私たちこそ眼が閉じていた者、耳が閉じていた者です。主イエスに対して眼が閉じており、それゆえに、隣人にも眼が閉じていました。主イエスが語ってくださる言葉に対して耳が閉じており、それゆえに、隣人の叫びにも耳が閉じていました。
 弟子たちがまさにそうでした。弟子ヤコブとヨハネとが主イエスに、マタイによる福音書20:21「何が望みか」、と問われた時、弟子たちは何を願ったのか。ヤコブとヨハネの母親を通してでしたが、主イエスの右に座りたい、左に座りたい、主イエス・キリストの傍らの第一の席に座りたい、と願いました。
 しかし、本当は弟子たちも弟子たちの母親も眼を開けてください、視えるようにしてください、とお願いすべきでした。イエスさまが語ってくださった言葉が未だよく分かりません。イエスさまの十字架の死と復活を未だよく信じることができません。だから、視分ける眼を与えてください、聴き分ける耳を与えてください。主イエスの本当の御姿を視る眼差しを与えてください、聴き分ける耳を与えてください。このように弟子たちも祈るべきでした。勿論、私たちもです。
 かつて、生まれながら眼が視えなかった人の眼を主イエスが開いてくださった時、主イエスはこう語ってくださいました。ヨハネによる福音書9:41c「しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」、今、あなたたちが、『見える』、と言い張るところに、あなたたちの罪がある。弟子たちは、主イエスが語ってくださったこの言葉を思い起こすべきでした。弟子たちは、自分たちはもう長い間主イエスの弟子として一緒に生活してきたのだから、主イエスが語ってくださった言葉はもう十分よく分かっている、という思いがあったに違いありません。
 しかし、イエスさま、あなたの御姿を正しく視詰める眼を与えてください、イエスさま、あなたが語ってくださる言葉を正しく聴き取る耳を与えてください。この祈りこそ私たちの祈りです。
 主イエスを視詰める眼に、主イエスが語ってくださった言葉を聴き取る耳に、いろいろなものが覆い被さっているから視えなくなってしまう、聴くことができなくなってしまいます。それゆえに、隣人を正しく視詰めることができず、隣人の言葉を正しく聴き取ることができず、悲痛な叫びをも聴き取ることができなくなってしまいます。私たちが身につけてしまった知識や経験が主イエスの御姿を視えなくしていることもあります。私たちの苦しみや悲しみが主イエスが語ってくださった言葉を聴こえなくしていることもあります。私たちの我が儘な思いや罪が主イエスが与えてくださる救いを視えなくし、聴こえなくしてしまいます。
 だから、主イエスは既に6:41〜42「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」、と語られました。私たちの眼に丸太棒のような太い木が横たわっているから、視ることができなくなっています。私たちの眼に丸太棒、罪が横たわっているから、主イエスの御姿を正しく視詰めることができなくなってしまいます。主イエスが語ってくださった言葉を正しく聴き分けることができなくなってしまいます。隣人を正しく視詰めることができず、隣人が語る言葉を正しく聴き取ることができなくなってしまいます。だから、眼を開いてください、視えるようにしてください、耳を開けてください、聴くことができるようにしてください、との祈りは私たちの祈りです。
 最後に、ここに記されている出来事は眼の視えない人が癒された奇跡の物語です。癒しの奇跡ならこれまでにも何度も記されました。しかし、ルカによる福音書はわざわざ記しました。それはいったいなぜか。
 主イエスは間もなくエルサレムに入られます。エルサレムにおいて主イエスを待っているのは十字架です。人々から苦しみを受けられ、罵られ、辱められ、十字架に磔られる。多くの群衆は十字架の主イエスに躓いた。どうして十字架で死ぬような者が、神の子救い主なのか、と思って主イエスを捨てました。
 信仰の眼差しがなければ十字架の救い主主イエスは分かりません。だから、信仰の眼差しが与えられることが必要です。
 主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください、私たちに先立って眼の視えない人が主イエスに祈りを献げました。主イエスは立ち止まってその祈りを聴いてくださいました。だから、私たちも祈りを献げることができます。私の眼を開いてください。主イエスを視詰める眼差しを確かにしてください。救いを視詰める眼差しを確かにしてください。主イエスが語ってくださった言葉を聴く事が出来るようにしてください、神の言葉を聴き分ける耳を与えてください。この祈りは私たちの祈りです。
――――――― 5月24日〜30日の祈りの課題 ――――――
今年の主イエス・キリストの昇天記念日は5月21日、聖霊降臨祝
日(ペンテコステ)は5月31日、教会をたててくださり、私たち
に信仰を与えてくださり、さまざまな賜物、慰めを与えてくださる
聖霊のおはたらきに感謝して。