2020年6月7日(日)主日礼拝式

 

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―――――― 2020年 6月 7日 主日礼拝式 ―――――
─招き・悔い改め──                    
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編34:2〜12              
讃  詠  546                    
十  戒                          
主の祈り (564)                   
交読詩編  106 詩編第106編28〜38節     
讃 美 歌   57
─神の言葉─────                    
聖書朗読 出エジプト記4:10〜17(P.98)
     ルカによる福音書19:11〜27(P.146)
祈  祷                          
讃 美 歌  191                
信仰告白  使徒信条(566)              
説  教 『恐れを越える神の国』馬場康夫牧師 
祈  祷          
讃 美 歌  298
聖  餐  202 新型コロナウィルス感染拡大予防のために中止
─応答・祝福・派遣─                  
献  金
頌  栄  539                   
祝  福                          
後  奏
報  告

       2020年 6月 7日 主日礼拝説教要旨
 出エジプト記4:10〜17、ルカによる福音書19:11〜27
           「恐れを越える神の国」

1.
 今朝、聴いております聖書の言葉は新約聖書ルカによる福音書19:11〜27に記されている言葉です。ムナの譬え話、と呼ばれる譬え話です。19:12〜13「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。』」、主イエス・キリストの時代、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々はローマ帝国に支配されていましたから、自分たちで勝手に王を立てることはできませんでした。ローマ皇帝は神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の中でも立派な家柄の人、身分の高い人、権力と富のある人、何よりもローマ帝国にとって都合の良い人をユダヤの領主、王に任じました。王として、領主として立てられる人は任命を受けるためにローマまで出掛けて行きました。そこで、主人の留守中に僕たちに自分の土地や財産を委ねて、商売をさせることがありました。ここでは、10人の僕たちが主人から10ムナ与えられて、主人の留守の間、商売をし、はたらきました。

2.
 19:15「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」、王位を受けて帰ってきた主人は僕たちがどれだけ儲けたかを調べるために、10人の僕たちを呼び出しました。最初の僕は1ムナで10ムナを稼ぎました。次の僕は1ムナで5ムナを儲けました。3番目の僕は、主人から預かっていた1ムナを布に包んでしまっておいた、と報告しました。なぜか。

 19:21「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」、主人が預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人で恐かったからだ、と返答しています。しかし、本当にそうか。主人は自分の留守中に、10人の僕たちに10ムナを預けました。僕たちを信頼して自分の財産の一部を預けています。しかも、最初の僕が10ムナを稼いだのに、2番目の僕が5ムナしか儲けることができなかった、と言って、叱っていません。

 19:22〜24「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。
『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』」、1ムナをこの僕から取り上げて、10ムナ持っている者に与えなさい、と命じました。僕に与えられていた1ムナが取り上げられてしまいました。この僕は主人から預かった1ムナを着服したわけではありません、浪費したわけではありません、軽んじたわけでもありません。大切にしまっておきました。しかし、主人は、この僕から預けておいた1ムナを取り上げた。ずいぶん厳しい裁きです。どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。
主人は預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人だ、と自分勝手に思い込み、主人に対して恐怖を抱いたからです。言い換えると、主人の信頼を裏切ったからです。この主人は10人の僕たち全員に絶大な信頼を寄せています。自分が王位を受けて帰って来るまでの間、10人の僕たちに全てを任せました。

3.
 しかも、僕たちの周りの状況は決して良くない。19:14「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。」、国民、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々は新しく王座に着くことになる僕たちの主人を憎んでいたので、この人が王になることを望んでいなかった。そこで、僕たちの主人が王位を受けるためにローマに出掛けている間に、ローマに使いを送って、この人に王になられると困る、とローマ皇帝に伝えさせた。

10人の僕たちは新しく王になる人の僕たちです。10人の僕たちはイスラエルの国、ユダヤの国に残っています。ところが、あのような人が自分たちの王になると困る、お前たちの主人が自分たちの王になると困る、と考えた人々がこの10人の僕たちの周りに沢山いた。それで、わざわざローマにまで使いの者を遣わして、あのような人が自分たちの王になると困る、とローマ皇帝に直訴させた。ですから、お前たちはあの主人の僕、と悪口を言われる中、この10人の僕たちは多くの敵に囲まれ、孤軍奮闘しなければなりませんでした。1ムナを用いはたらいても商売に失敗し、お前たちはあの主人の僕たちだ、と言われて相手にされないことぐらいあっても不思議ではありませんでした。だから、3番目の僕はただ主人が恐かっただけではありません。世間を恐れた。

4.
 なぜ、主イエスはこの譬え話を語られたのでしょうか。19:11「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」、と記されているように、直ぐにでも神の国が到来する、と人々が考えていたからです。来週、聴くことになる19:28〜には、主イエスがエルサレムにお入りになる出来事が記されています。人々が熱狂して主イエスを救い主、新しい王として迎えています。なぜ、主イエスを大歓迎したのか。主イエスはローマ帝国にとって都合の良い王ではなくて、ローマ帝国による支配を打ち破ってくださる自分たちにとって都合の良い新しい王である、と自分勝手に思い込んだ人々が主イエスを王、神の民イスラエルの王、ユダヤの王、神の国の王として祭り上げたからです。新しい王である主イエスがイスラエルの都エルサレムに入城なさって神の国が完成する、と思った。この地上に神の国、天国が完成する、と錯覚したからです。しかし、直ぐにでも神の国が到来する、神の国が完成する、と思い込んだ人々が日々の生活を軽んじ始めるようなことがあっては困る、畑を放り出し、家畜を放り出し、店を放り出したら困る、とお考えになった主イエスはこの譬え話を語られました。

5.
 この譬え話に登場して来る立派な家柄の人、王位を受けて帰って来る人は主イエスです。王位を与えてくださる御方は父なる神です。10人の僕たちは弟子たち、私たちです。主人を憎んでいた国民は主イエスを神の子救い主と受け入れない神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々、そして全世界の人々です。

 主人が王位を受けるために遠いところへ旅立ち、留守になる。王位を受けに行った主人がやがて帰って来る。明らかに主イエスの御姿です。これから、主イエスはエルサレムにお入りになられます。十字架に磔られて、殺されてしまいます。三日目に御復活され、四十日後に天に昇られ、その後、弟子たちの前からも、私たちの前からも御姿を隠されたままです。弟子たちに視える御姿で、私たちの眼に視える御姿でとどまり続けられたわけではありません。主人、主イエスが遠いところ、父なる神のもとへ旅立たれ、この地上に長く不在になってしまわれた。しかし、やがて帰ってこられる。この地上に再び来てくださる。最後の審判を執り行われる。

 その主人、主イエスは御自分の不在の間、御自分の仕事を弟子たちに委ねられた、教会に委ねられました。私たち自身に1ムナが委ねられました。主イエスは絶大な信頼を僕である私たちに掛けてくださって、御自分の財産を委ねられました。私たちは1ムナを委ねられた主イエスの僕です。

 3番目の僕が主人に叱られ1ムナを取り上げられてしまったのは、主人は預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人だ、と自分勝手に思い込み、主人に対して恐怖を抱き、失敗することを恐れたからでした。主イエスが恐い。同時に、人々に、お前も主イエスの僕だ、と言われることを恐れたからでした。まさに主イエスなど知らない、主イエスの仲間ではない、と三度も誓って言い張った一番弟子ペトロがそうでした。

 主イエスは御自分の仕事を全て私たちに委ねてしまわれるほど、私たちに対して絶大な信頼を寄せておられます。私たち教会は主イエス・キリストの代わりをしています。主イエス・キリストの権威を委ねられました。私たちがはたらいている間、主イエスは安心しておられます。

 私たちは3番目の僕のように、主イエスを預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい人だ、と自分勝手に思い込み、主イエスに対して恐怖を抱いている僕ではありません。恐怖を抱きながら1ムナを布に包んでしまっておいた僕ではありません。主イエスは私たちを冷酷に取り扱われるような主人ではありません。

 確かに、一方で、何の恐れなしに神に近付くことは困ったものです。人間が罪を背負っているからです。しかし、他方で、神に対して恐怖を抱く必要はありません。私たちはただ神に対して恐怖を抱いている僕ではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の審きが済んでしまった私たちに求められていることは、恐怖ではなくて神への畏怖畏敬、畏れ畏まることです。

 主イエスを王として迎え入れた私たちは、最早、主イエス御自身が語られた言葉を恐れる必要はありません。主イエスを神の子救い主と信じて生きる時、恐怖を抱く必要はありません。必ず、良い忠実な僕よ、と主イエスが迎えてくださる日が来ます。