2020年 6月14日 主日礼拝式


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―――――― 2020年 6月14日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  ヨハネによる福音書4:23〜24
讃 美 歌  130           
聖書朗読 ゼカリヤ書9:9〜10(P.1489)
     ルカによる福音書19:28〜40(P.147)
祈  祷                          
説  教 『平和を与えてくださる王』馬場康夫牧師 
祈  祷              
讃 美 歌  224
献  金
祝  福
後  奏


       2020年 6月14日 主日礼拝説教要旨
 ゼカリヤ書6:9〜10、ルカによる福音書19:28〜40
           「平和を与えてくださる王」

1.
 今朝、私たちが聴いておりますルカによる福音書19:28〜40に記されている出来事は主イエス・キリストのエルサレム入城、と呼ばれます。、19:35〜36「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。」、王が凱旋する時、馬に乗ってエルサレムに入るように、主イエスは驢馬の子に乗られてエルサレムにお入りになられました。神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々は新しい王を出迎えるようにして、自分たちが着ていた服を道に敷いて、主イエスを新しい王として大歓迎しました。
 これまでエルサレムに入城してきた王は馬に乗る、軍馬に乗る威風堂々とした王でした。しかし、ローマ帝国が遣わした王でした。人々は苦々しい思いで新しい王を出迎えざるを得ませんでした。しかし、主イエスは違う。生粋のユダヤ人の血筋を引かれる王、王ダビデでの血筋を引かれる待ちに待った自分たちの新しい王。だから、人々は喜んで主イエスを新しい王として喜んで出迎えました。
 主イエスは驢馬の子に乗られることによって御自分が王であることを、しかも、馬、軍馬に乗られる王ではなく、戦、剣、武力によって王として君臨なさるのではなく、驢馬、平和をもたらしてくださる王であることを明らかにしてくださいました。
聖書において、平和とは何よりも神がともにいてくださることです。神との和解です。もともと神と私たちとの間には飛び越えて行くことができない川が流れていた。深い、広い川。こちら側から泳いで渡って行くことができない、橋を架けることもできない罪という川。神との断絶です。ですから、神が罪人と一緒におられるということはあり得ません。しかし、主イエスが橋を架けてくださった。神との断絶に梯子を架けてくださった。それが十字架です。主イエスが私たちの罪の審きを身代わりに十字架によって背負ってくださり、審きを引き受けてくださった。主イエスの十字架の死と復活によって、神と私たちとの深い断絶に橋が架かった。神が私たちとともにいてくださることができるようになった。主イエスが与えてくださる救いとは平和とは、神との平和。それゆえの平安です。
 人々が考えていたのとはずいぶん異なった救いであったに違いありません。神がともにいてくださる、という大きな平和、平安を与えてくださろうとしておられたのにもかかわらず、人々はこの直後主イエスを捨てます。
 しかし、主イエスが捨てられることによって、神との間に横たわっていた断絶、罪が取り去られました。こんな救い主などいらない、と思って主イエスを十字架に送り込んだ。ところが、この主イエスの十字架の死と復活によって私たちと神との間に横たわっていた罪が取り去られ、神とともに生きる道が備えられました。まことに不思議な神の救いのわざです。

2.
 主イエスを王として出迎えた人々はこう叫びました。19:37〜38「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。』」、主イエスは神が遣わしてくださった救い主である、王である、神に平和、神に栄光あれ、と讃美いたしました。しかし、主イエスを大歓迎して出迎えた大群衆が僅か数日後に何と叫んだのか。イエスを十字架に磔て、殺せ、と叫び続けました。人々の一度は自分たちの王として主イエスを出迎えたにもかかわらず、なぜ、僅か数日後に、イエスを十字架に磔て、殺せ、と叫び続けたのか。
 自分たちが視た全ての奇跡のことで喜び、神を讃美していたからです。ヨハネによる福音書はこう記しています。6:14〜15「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」、かつて人々が主イエスを王に祭り上げようとした理由は、主イエスがなさってくださったしるし、奇跡でした。たった5つのパンと2匹の魚とで男だけで5000人の人々をお腹一杯食べさせてくださったからでした。たった、今、自分たちが奇跡を経験したからでした。主イエスが自分たちの必要としているパンを与えてくださったからでした。人々が主イエスを王にしようとしたのは、主イエスが人々の求めているもの、望んでいるものを与えてくださったからです。主イエスは人々の願いを聴いてくださり、病を癒され、養ってくださいました。それで、人々は主イエスを王にしようとしました。しかし、主イエスは王に祭り上げようとした人々の願いを拒絶なさいました。だから、お一人でまた山へ退かれました。
 本来、王は私たちが仕えるべき御方です。王は自分の必要な時にだけ呼んだら来てくれる召使ではありません。私たちが仕えるべき御方です。ところが、うっかりすると、主イエスを、私たちが呼んだら、いつでも助けてくださる王として、まるで召使のように主イエスを取り扱ってしまう。確かに、主イエスは祈りを聴いてくださる王です。しかし、いつでも呼べば助けてくださる王、私たちに仕えてくださる王、とうっかり思い込んでしまう。自分が必要としている時にだけ自由に呼び出すことができる王、と思ってしまう。

3.
 確かに、主イエスは私たちが仕えるべき筈の王です。ところが、この王である主イエスが私たちに、しかも、十字架によって仕えてくださいました。ここに、主イエスの愛が、神の愛があります。
 この主イエスの入城を、私たちの心への、生活への、人生への入城を拒否するならば、私たちには救いはない。神の国の王が、天国の王が態々私たちのところにまで出向いて来てくださっているのにもかかわらず、主イエスの私たちの人生への入城を拒む時、私たちには救いはありません。主イエスを私たち人生の王としてお迎えする時、私たちは、神とともなる人生を送ることができるのです。

―――――― 2020年 6月21日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  187 
聖書朗読 エレミヤ書5:1〜25(P.1182)
     ルカによる福音書19:28〜44(P.147)
祈  祷                             
説  教 『せっかく神が訪ねてくださったのに』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  249
献  金
祝  福
後  奏