2020年 6月21日 主日礼拝式

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―――――― 2020年 6月21日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  187 
聖書朗読 エレミヤ書5:1〜25(P.1182)
     ルカによる福音書19:28〜44(P.147)
祈  祷                             
説  教 『せっかく神が訪ねてくださったのに』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  249
献  金
祝  福
後  奏

     2020年 6月21日 主日礼拝説教要旨
 エレミヤ書5:1〜25、ルカによる福音書19:28〜44
        「せっかく神が訪ねてくださったのに」

1.
 私たちの救い主主イエス・キリストの御生涯を記録している四つの福音書はそれぞれの立場から主イエスの御生涯を描いています。ここに記されている言葉の中でルカによる福音書にしか記されていない言葉があります。それは、19:41〜42「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。』」、主イエスが泣かれた、という言葉です。主イエスが声を上げて泣かれた。なぜか。

 都エルサレムを御覧になって涙なさいました。このエルサレムにおいて僅か五日後に、主イエスは十字架に磔られて殺されてしまわれます。主イエスが泣かれたのは御自分が十字架に磔られた時ではありませんでした。エルサレム全体を見渡すことがおできになった時、それだけで主イエスの涙が溢れ出しました。神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の中でも都エルサレムに住む人々、神殿に詣でている人々の姿を御覧になって、主イエスは涙なさった。ちょうど日曜日の礼拝のために教会に集っている私たちを御覧になって涙なさった、というようなことが起こりました。

 この時、主イエスとともに涙した人は誰もいませんでした。主イエスの悲しみを理解した人は誰一人としていませんでした。弟子たちが主イエスと一緒に泣いたわけではありませんでした。群衆はエルサレムの神殿に詣でることができる、エルサレムの神殿においてユダヤ三大祭りの一つ過越祭を献げることができる喜びで満たされていました。しかし、そこに真の信仰がない、ということを主イエスは御覧になりました。

 確かに、19:38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」、と人々は讃美し、主イエスを新しい王として迎えました。しかし、僅か五日後にいったいどうなるのか。この讃美を歌った同じ群衆が、主イエス十字架に磔て殺せ、と叫び、弟子たちは主イエスを見捨てる。平和をもたらしてくださる主イエスが訪ねてくださったにもかかわらず、結局、主イエスを捨ててしまう、救い主として迎えることができない。主イエスが与えてくださる平和など不必要、自分たちの生活に欲しい平安、自分たちが求める救いを与えてくださらない救い主など人々にとって不必要でした。地上での自分たちの生活に平安がない、闘いが続く、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさ、病、不条理がある。この地上での生活に平安を与えてくださる救いだけを主イエスに求めていた。だから、主イエスを捨てた。決して他人事ではありません。

 しかし、まことに不思議なことに主イエス・キリストが捨てられることによって、神との間に横たわっていた断絶、罪が取り去られました。こんな救い主などいらない、と思って主イエスを捨てた。主イエスを十字架に磔て、殺した。ところが、この主イエスの十字架の死と復活によって私たちと神との間に横たわっていた罪が取り去られ、神とともに生きる道が備えられました。

2.
 19:44b「…神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」、神が訪れてくださった、神が主イエスによって訪ねてくださった。それにもかかわらず、人々はわきまえませんでした。いや、ただわきまえなかっただけではなく、主イエス殺す、神を殺す。これが主イエスの涙でした、悲しみでした。

 エルサレム、エル・シャローム、平和の基礎と呼ばれながら、平和をもたらしてくださる主イエスを捨てる。平安を与えてくださる主イエスを捨てる。神の訪れ、神が訪ねてくださったことを知らない人々に悲しみを覚えられました。それは主イエスが人々を愛するがゆえにです。

 考えてみると、クリスマスの時、ユダヤのベツレヘムにおいて主イエスがお生まれになられた時、いったい誰が主イエスを出迎えたでしょうか。人々は主イエスを出迎えませんでした。信仰の指導者たちも主イエスを出迎えませんでした。主イエスの御降誕をわきまえませんでした。いや、旧約聖書に預言されていることをわきまえていても、主イエスを救い主として出迎えませんでした。ルカによる福音書は、2:7b「…宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」、と記しました。誰も出迎えませんでした、神の訪れを知りませんでした。

 ですから、主イエスの涙、悲しみはオリーブ山からエルサレムに向かっての下り坂に差し掛かかられ、エルサレム全体を視渡すことができたこの時だけのものではありませんでした。主イエスがこの地上に来てくださった時以来のものでした。主イエスが一生懸命伝道なさる。しかし、なかなか人々に伝わらない悲しみ、言葉が受け入れられない悲しみ。御自分に一度は従って来ながら、暫くすると、遠離り、見捨てられてしまう悲しみ。私たち教会が味わう悲しみと同じです。私たちも一生懸命祈り、伝道に励みます。けれども、なかなか人々に救いの言葉が伝わらない、主イエスが受け入れられない悲しみを経験いたします、伝道の困難を経験します。それは主イエスが経験なさった悲しみと同じです。私たちも悲しみます。

 このように、私たちは自分自身が悲しむことをよく知っています。しかし、私たちは時に人を悲しませているということを忘れてしまいます。いや、私たち自身が主イエスを悲しませていることを忘れてしまいます。聖書は何時でも何処でも主イエスが泣いておられる、ということを書いているわけではありません。しかし、聖書の言葉は至る所で主イエスの涙、悲しみ、神の悲しみを指し示しています。

 エルサレム、それは神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々が住んでいるところです。神の民が住んでいるところを主イエスが御覧になって、涙を流されました。エルサレム、神の民である私たちが住んでいるところです。主イエスは私たちを御覧になって、涙を流しておられる。主イエスが語り続けてくださった言葉を捨ててしまうからです。私たちが神が求められる聖さ、義しさ、愛の深さ、まことの自由に生ききることができないことを主イエスは御覧になって、声を上げて泣いておられる。主イエスに悲しみをもたらしたのは、他でもない神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々であり、私たちです。

3.
 主イエスは、平和の道、平和、平安をもたらしてくださる唯一の真実の道である御自分を拒み、神が御自分によってせっかく訪ねてくださったことも弁え知らない人々、私たちの愚かさを背負われて十字架への道を歩み抜かれました。しかし、まことに不思議なことに、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神とともに生きる唯一の真実の道が確立され、私たちは主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって神とともに生きることができるようになったのです。この恵みを受け入れた私たちは、かつて主イエスを悲しませていた私たちは、もう主イエスを悲しませていない。天に大きな喜びがあります。

―――――― 2020年 6月28日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  195                     
聖書朗読 エレミヤ書7:8〜15(P.1188)
     ルカによる福音書19:45〜48(P.148)
祈  祷                                      
説  教  『教会は祈りの家』
祈  祷       
讃 美 歌  313                   
献  金
祝  福
後  奏