2020年 7月12日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200712_001_Sermon_.mp3

 

―――――― 2020年 7月12日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  164 
聖書朗読  詩編118:17〜29(P.958)
      ルカによる福音書20:9〜19(P.149)
祈  祷             
説  教 『役に立つ救い』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  257
献  金
祝  福
後  奏  


     2020年 7月12日 主日礼拝説教要旨
   詩編118:17〜29、ルカによる福音書20:9〜19
           「役に立つ救い」

1.
 ルカによる福音書20:10〜12「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」、葡萄園の主人が収穫の時期になったので、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、僕たちが農夫たちに次々と袋叩きにされ、追い返され、侮辱を受け、傷を受け、放り出された。挙げ句の果て、20:14〜15a「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。…」、農夫たちは、跡取り息子が来た、あいつを殺してしまえば財産は自分たちのものになる、と考えて、主人のひとり息子を殺してしまいました。

 この葡萄園の主人の行動は愚かです。自分の僕たちが次々と袋叩きにされ、瀕死の重傷を負わせられのにもかかわらず、そのままなお僕たちを送り続ける主人はいません。さらに、主人のひとり息子がやって来た時、農夫たちが、この息子を殺したら財産は自分たちのものになる、と考えたことも筋が通っていません。跡取り息子を殺すだけでは駄目です。主人を殺した時に初めて自分たちのものになります。しかし、ひとり息子を殺すことは主人を殺すこと。

 この譬え話はこう終わりました。20:15b〜16a「…ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。…」、葡萄園の主人は僕たちを次々と酷い目にあわせ、袋叩きにし、侮辱を加え、放り出し、遂にひとり息子を殺した農夫たちを殺す。厳しい復讐、審きが語られています。譬え話です。いったい主イエスは何を譬えて語られたのか。

2.
 葡萄園の主人は神です。僕たちは神が神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々に次々と遣わされた預言者たちです。預言者たちが袋叩きにされ、侮辱を加えられ、放り出された。預言者が語った言葉を聞き入れませんでした。最後の預言者ヨハネも殺されました。しかし、預言者たちを袋叩きにし、侮辱を加え、放り出す、ということは文字通り預言者を殺す、ということとだけではなく、むしろ、預言者たちが語る言葉を聞かない、神の言葉を聞かない、ということです。預言者たちが語る言葉を重んじない。神の言葉を軽んじる。主イエスが語ってくださった言葉を黙殺する。神を無視して生きる。主イエスを亡き者にする。主人が長い旅から帰って来ることを無視する。主人が帰って来る時があることを無視する。言い換えると、審きが始まることを無視する。

 だから、農夫たちは主人のひとり息子を殺した。神のひとり子主イエスを殺した。実際に主イエスを十字架に磔た人々だけではない。主イエスが語ってくださる言葉を聞かない、ということによって主イエスを殺す。主イエスが語ってくださる言葉を重んじない、ということによって主イエスを殺す。教会が語る言葉を軽んじる、ということによって、教会のかしらである主イエスを殺す。

 そういうところで、私たちはどうなのでしょうか。主イエスが再び来られること、その時、審きをなさることをどれほど真剣に信じているのでしょうか。いったいこの一週間、私たちが教会生活、礼拝生活、信仰生活、日常生活の中で神の言葉を軽んじなかった、と言えるでしょうか。預言者が語り、主イエスが語ってくださった言葉を踏みにじらなかった、と言えるでしょうか。預言者を殺さず、主イエスを殺さなかった、と言えるでしょうか。主イエスが語ってくださった言葉を黙殺しなかった、と言えるでしょうか。

3.
 しかし、20:17〜18「イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」』」、家を建てる者が捨てた石、こんな石は役に立たないと思って捨てた石。しかし、それが実は隅の親石、新しい家を建てる時の最も大切な石、基礎になった。人々がこんな石など役に立たない、と思って捨てた石は主イエス御自身です。こんな石は役に立たない、邪魔だ、と思って捨てた。しかし、救いの礎となった。主イエスが自分たちの人生の中に入ってこられると都合が悪い、邪魔、役に立たない。神が自分たちの人生にかかわられると不都合。神の言葉が、主イエスが語ってくださった言葉が自分たちの心と体の中に入ってくると都合が悪い。だから、黙殺する。しかし、捨てた筈の石、殺したつもりの神の言葉が、殺した筈の主イエスが救いの礎となったのです。

 主イエスは、僕たちを次々と殺した農夫たち、神が遣わしてくださった預言者たちが語った言葉を黙殺し、神のひとり子主イエスを殺した人々の審きをも十字架によって背負ってくださったのです。ほんとうは、預言者たちが語った言葉を黙殺し、主イエスが語ってくださった言葉をも黙殺してしまう私たちは審きを受けて、滅ぼされてもしかたがなかったのにもかかわらず、主イエスが身代わりに十字架によって審きを引き受けてくださり、滅んでくださった。滅んでくださっただけではなく、死に勝利なさった。だから、私たちは審きを受けて死に渡されることはないのです。

 この救いの言葉を主イエスは教会を通じて忍耐をもって私たちに語り続けておられます。だから、主イエスが語ってくださる言葉を捨ててよいか、聖書が語っている言葉を黙殺してよいか、自分たちのことが語られていることを知って、腹を立てた人々のようになってよいか、ということが問われています。神は私たちが主イエスが語ってくださった言葉を素直に受け入れることを忍耐なさりながら今も待ち続けておられるのです。主イエスを悲しませることなく、主イエスが語ってくださった言葉を聴き、素直に受け入れることができればまことにさいわいです。

―――――― 2020年 7月19日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  163                     
聖書朗読  創世記1:26〜31(P.2)
      ルカによる福音書20:20〜26(P.149)
祈  祷 
説  教  『信仰と税金』
祈  祷       
讃 美 歌  339                   
献  金
祝  福
後  奏