2020年 8月 2日 主日礼拝式

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―――――― 2020年 8月 2日 主日礼拝式 ―――――
前  奏 (黙祷)                    
礼拝招詞 詩編34:2〜12 
讃 美 歌 234A(歌詞を黙読)            
聖書朗読 詩編110:1〜7(P.952)
     ルカによる福音書20:40〜44(P.150)
祈  祷                          
説  教 『真実の唯一の救い主』馬場康夫牧師 
祈  祷              
讃 美 歌 131(歌詞を黙読)
献  金   
祝  福
後  奏   

聖書:このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうして
メシアがダビデの子なのか。 ルカによる福音書20:44


     2020年 8月 2日 主日礼拝説教要旨
          詩編110:1〜7、
      ルカによる福音書20:40〜44
           「真実の唯一の救い主」

1.
 皆さんにとって救い主主イエス・キリストとはいったいどのような御方か。本当は全人類にとって避けて通ることができない問いです。あなたにとって主イエスとはいったいどのような救いを与えてくださる御方か。

 主イエスはこう問われました。20:41「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。』」、なぜ、人々は、メシア、キリストはダビデの子である、と言うのか、と問われました。不思議な問いです。こう終わっています。20:44「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」。ダビデ自身が、キリストを主、と呼んでいるのに、キリストがダビデの子なのか。言い換えると、主イエスは、キリストである御自分はダビデの子ではない、とお語りになりました。主イエスがダビデの子、ダビデの子孫であるのかそうではないのか、そのようなことは私たちには関係のない退屈な遣り取りがなされているように聴こえる言葉かも知れません。しかし、ここに記されていることはとても大切です。いったい何が問題になっているのか。一言で言えば、主イエスとはいったい誰か、どのような救いを与えてくださる御方なのか、ということです。しかし、この短い僅かに5節だけが問うていることではなく、ルカによる福音書全体が、いや、聖書全体が私たちに問うていることです。それほど大切な問いがここに記されています。ここで主イエスが語ってくださった言葉は私たちにとって決定的な意味を持ちます。

2.
 主イエスはいったい誰の子どもなのか、誰の子孫なのか。ダビデの子、ダビデの子孫。ダビデは神の民イスラエルを紀元前1000年から40年間治めたたいへん優れた王であり、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々はダビデ王のような力ある王の誕生を待ち続けていました。今も待ち続けています。主イエス御自身、神の子であるのにもかかわらず、ダビデ王の血筋を引いた母マリアとその夫ヨセフの子どもとして、この地上に遣わされました。ですから、一方で、主イエスはダビデの血筋を引いた御方としてダビデの子孫、ダビデの子です。

 しかし、ダビデ自身が、キリストを主と呼んでいる、神と呼んでいる。それなら、どうして、キリストはダビデの子なのか。ダビデは、キリストは自分がお仕えすべき主である、自分がお仕えすべき神である、と語っているのにもかかわらず、どうして、キリストはダビデの子である、と言えるのか。言い換えると、他方で、御自分はダビデの子ではない、と主イエスは語られました。謎めいた言葉です。

 確かに、主イエスはダビデの子孫、ダビデ王の血筋を引かれた御方です。ダビデの子に、ホサナ、ダビデの子と呼ばれることを受け入れられて、都エルサレムにお入りになりました。一方で、主イエスは御自分がダビデの子孫であられることを認めておられます。しかし、他方で、主イエスはダビデの子と呼ばれることを拒否なさることによって、ユダヤの人々が抱いているようなダビデの子、救い主主キリストではないことを明らかになさったのです。ダビデ王のように力を振るってローマ帝国の支配を打ち破るような王ではない、とはっきりと語られたのです。

3.
 それでは、いったい主イエスはどのような救い主主キリストなのか。いったい、どういう救いを与えてくださるのか。この問いにきちんと答えることによって、そこに信仰が生まれます。

 私たちも主イエスを救い主主キリストと信じています。私たちの国はローマ帝国に支配されているわけではありません。また、私たち自身が誰かに奴隷のように支配されているわけでもありません。しかし、私たちは時としてさまざまな思いに支配されてしまうことがあります。苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさを抱えることがあります。主イエスを信じたら、たちどころに病気が治り、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさから解放されるのでしょうか。勿論、そういうことがない、とは言えません。主イエスを信じたら平安になった、慰められた、励まされた。そういうことはいくらでもあります。しかし、ただ単に、もし、そういう救いだけを主イエスに求めているのであれば、かつてのユダヤの人々と変わりありません。別に主イエスでなくても構わない。私たちが求めている救いは主イエスでなければ与えられない救いである筈です。それはいったい何か。

 確かに、主イエスはダビデの子孫であることを喜んで引き受けてくださいました。しかし、ユダヤの人々が待ち望んでいたような単なるダビデの子ではありませんでした。ユダヤの人々が考えていたのとはまるで違ったしかたで、しかし、王として、救い主として来てくださいました。ユダヤの人々だけではなく、ローマ帝国に生きる人々も全世界の人々を救ってくださる救い主として来てくださったのです。主イエスはただダビデの子としてだけではなく、それを遥かに越えた御方として、神の子として、ユダヤの人々に真っ先に遣わされ、私たちのところにも来てくださったのです。ただ、ダビデの血筋を引かれるだけではなく、神の子の血筋を引かれる御方として、神御自身としてダビデの血筋の中に入ってきてくださり、ダビデの家、神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々だけではなく、全ての人々を救いへと招いてくださる救い主主キリストです。

 しかも、人々が抱き続けた救い主の姿とは違うかも知れないけれども、人々の苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛み、さびしさをすべて抱え込んでくださる救い主として、ダビデの子孫として、しかし、神の子として私たちのところに来てくださったのです。

 私たちが求める救い、助けて欲しい、苦しいから助けてください、悩みがあるから助けてください、嘆きから助け出してください、悲しみから助け出してください、痛みがあるから助けてください、さびしさから助け出してください、そういう救いは本当の救いではないから、と語られて、私たちの祈りを退けられるような主イエスではありません。主イエスは私たちの切実な願い、叫び、祈りを聴いてくださり、なお、私たち人間に最も必要な救いを与えてくださる。それでは、その救いとはいったい何か。

4.
 クリスマスの物語が既に明らかにしています。マタイによる福音書1:21〜23「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」、罪からの救いです。罪から救われることによって、インマヌエル、神が私たちとともにいてくださる、ということが実現しました。罪の赦しのないところに、神とともなる人生はあり得ません。しかし、主イエスは私たちとともに生きてくださるためにこの地上に来てくださり、十字架に磔られてくださり、私たちの罪を赦してくださいました。そして、インマヌエルの恵み、神がともにいてくださる、という救いを私たちに与えてくださったのです。



―――――― 2020年 8月 9日 主日礼拝式予告 ――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  167(歌詞を黙読) 
聖書朗読  イザヤ書51:12〜16(P.1147)
      ルカによる福音書20:45〜47(P.150)
祈  祷             
説  教 『見栄を捨てて』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  339(歌詞を黙読)
転入会式
献  金  
祝  福
後  奏 
聖書:そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをす
   る。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることに
   なる。   ルカによる福音書20:47