2020年 8月 9日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200808_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 8月 9日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編29:1〜9
讃 美 歌  167(歌詞を黙読) 
聖書朗読  イザヤ書51:12〜16(P.1147)
      ルカによる福音書20:45〜47(P.150)
祈  祷             
説  教 『見栄を捨てて』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  339(歌詞を黙読)
転入会式
献  金
祝  福
後  奏
聖書:そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをす
   る。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることに
   なる。   ルカによる福音書20:47


     2020年 8月 9日 主日礼拝説教要旨
       イザヤ書51:12〜16
       ルカによる福音書20:45〜47「見栄を捨てて」
1.
 私たちの救い主主イエス・キリストが語ってくださった言葉の中でも最も厳しい言葉の一つが、今朝、聴いております20:45〜47に記されている言葉です。それは、20:47b「…このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」、と主イエスが明確に審きを語っておられるからです。誰が最も厳しい審きを受けざるを得ないのか。20:46a「律法学者に気をつけなさい。」、律法学者たちです。神の民イスラエルの人々、ユダヤの人々の信仰の指導者である律法の学者、聖書の学者たちです。しかし、律法学者は主イエスに厳しく非難されても当然の見るからにいかにも悪い人間、極悪非道な人間であったのではありません。むしろ、逆です。ユダヤの人々の中でも律法学者は信仰に厳しい、神の戒めを厳格に守ろうとした人々です、できるだけ信仰深く生きようと願った人々です。しかし、主イエスは神の戒めを厳格に守ろうとした人々が最も厳しい審きを受ける、と語られた。いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。

2.
 20:46〜47「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」、長い衣を纏って歩き回る。律法学者が着ていた長い服には房が付いていました。房とはいったい何かということについては、旧約聖書民数記15:38〜41に記されています。服の四隅に房を付けておき、その房を見るたびに神の戒めを思い起こしました。房のついた服を着て、神の戒めをいつも思い起こそうとしました。ところが、律法学者はその房を長くした、大きくしました。自分のためだったら、そんなに大きくする必要はありません。人々からよく見えるようにするためです。あの人はいつも神の戒めを覚えているのだなぁ、と人々に認めてもらうためです。

 広場での挨拶、というのは人々が集まって来る広場、たとえば、神殿の庭などで挨拶されることです。律法学者先生、と呼ばれ挨拶されることを喜びとしました。確かに、律法を説き、聖書を教える者として尊敬されることは間違っているわけではありません。しかし、律法学者は人々から褒め讃えられることを求めました。
さらに、会堂で上席に座ることを好む、神の前での礼拝の席で上座に座れることを喜びとしました。あなたは立派な信仰をもっているからどうぞ上座へ、と言われることを期待しました。あの律法学者先生はいつもきちんと座って礼拝している、立派に礼拝している、そう言ってもらいたかった。

 寡婦の家を食い倒す。未亡人たちの家を食い物にした。律法学者は聖書の専門家です。聖書には、未亡人を守りなさい、と屡々記されています。律法学者も当然その言葉を知っていた筈です。今日よりもっと厳しい時代に置かれていた、夫を失った妻です。小さな子どもたちを抱えていたかも知れません。律法学者は本気で律法に従って生きようと考えた人たちです。私たちよりも熱心に神の戒めに従おうとした人たちです。未亡人の家を訪ね、助けてあげようとしました。では、どこで間違ったのか。自分の名誉を求めました。自分はちゃんと未亡人に仕えている、未亡人を助けている。人々から、あの律法学者先生はきちんと律法に従って未亡人を助けている偉い先生だ、と呼ばれることを求めました。外面、かたちでは確かに未亡人に仕えているように見えるけれども、しかし、主イエスが御覧になると、結局、未亡人は自分が褒められることを目的とする材料にしか過ぎませんでした。

 見せかけのための長い祈り。律法学者は未亡人のためにも祈ったに違いありません。それこそ長い祈りを献げました。しかし、主イエスが最も厳しい審きを受ける、と仰らなければならないほどの間違いがあった。いったいどこにその過ちがあったのでしょうか。

3.
 見栄のため、見せかけのためです。礼拝を献げることも、祈ることも、未亡人を助けることも全て見栄のため、見せかけのためです。人々から誉められることを求めました。聖書を説き、聖書の言葉を教え、神の言葉に従って生きようとする時、人々に認められ、尊敬され、人々から誉められることを求めました。神が褒めてくださることを忘れた。神が報いてくださることを忘れてしまった。神が自分をどう御覧になっておられるか、ということよりも、人々の評価を気にした。言い替えると、偽善です。主イエスがこの地上での人生において一生掛かって戦われてきたことは偽善の罪です。

 主イエスは明らかに見栄を、見せかけを、偽善を捨てることを求められました。言い換えると、神の聖さを満たし、神の義しさを満たすことを求められた。神の聖さ、神の義しさに生きることを求められました。では、私たちは神の聖さを満たし、神の義しさを全うすることができるのでしょうか。できません。パウロが語っております。ローマの信徒への手紙3:10b〜18「…正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」、それなら、私たちは主イエスに、あなたたちも審きを受ける、と言われたままなのでしょうか。そうではありません。コリントの信徒への手紙一6:11「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」、主イエスが私たちを洗ってくださる、聖めてくださるのです。

4.
 ルカによる福音書20:45「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。」、主イエスは御自分の弟子たちに語られました。弟子たちも群衆も、そして、私たちもまた律法学者の仲間になる危険がありました。あなたたちも律法学者と同じ過ちを犯す、だから、気を付けなさい、と主イエスは私たちに向かって語られました。主イエスは、ただ単に、審きを語られて、人々を退けられたのではなく、私たちが気付かない偽善、罪に気付いてもらうために警告されました。

 主イエスは、人一倍厳しい審きを受けることになる、と警告されながら、しかし、主イエスはその審きの前に立ちはだかるようにして、御自身が十字架によって神の審きを受けてくださいました。そのようにして、私たちを聖めてくださり、私たちに神の義を与えてくださり、神とともに生きることができるようにしてくださったのです。



―――――― 2020年 8月16日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  286(歌詞を黙読)      
聖書朗読  列王記上17:1〜16(P.561)
      ルカによる福音書21:1〜4(P.151)
祈  祷 
説  教  『いのちを与えてくださる神』
祈  祷       
讃 美 歌  333(歌詞を黙読)      
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを
見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨
二枚を入れるのを見て、 ルカによる福音書21:1〜2