2020年 8月16日 主日礼拝式

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―――――― 2020年 8月16日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編66:1〜5           
讃 美 歌  286(歌詞を黙読)      
聖書朗読  列王記上17:1〜16(P.561)
      ルカによる福音書21:1〜4(P.151)
祈  祷 
説  教  『いのちを与えてくださる神』
祈  祷       
讃 美 歌  333(歌詞を黙読)      
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるの
   を見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨
   二枚を入れるのを見て、 ルカによる福音書21:1〜2
 

   2020年 8月16日 主日礼拝説教要旨
       列王記上17:1〜16、
      ルカによる福音書21:1〜4
      「いのちを与えてくださる神」

1.
 ルカによる福音書21:1〜3a「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。…」、エルサレムの神殿にある賽銭箱、献金箱の前に沢山の人々が来て献金を献げていました。古今東西、神社仏閣、教会神殿があると、何処ででも見ることができる風景です。参拝者たち、礼拝者たちが献金を献げていました。献金を献げて、祈りを献げていました。その参拝者たちの中で、一方で、金持ちが沢山の献金を献げていたけれども、他方で、一人の貧しい寡婦、未亡人がレプトン銅貨二枚を献げた。レプトン銅貨というのは、当時、用いられていたローマの通貨のうち最小貨幣でした。1円玉です。今の日本のお金の価値から言うと100円ほどでしょうか、そのレプトン銅貨二枚を貧しい未亡人が献げました。

 しかし、21:3b〜4「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」、この未亡人は乏しい中から持っている生活費を全部献げました。僅かにレプトン銅貨二枚であったけれども、生活費全部を献げ尽くした未亡人の献金を私たちの救い主主イエス・キリストはとても喜んでくださいました。

 この出来事は、全財産を献げ尽くす、ということこそが信仰者の理想であり、この未亡人こそ献金の模範を示した、ということを伝えている出来事ではありません。貧しい人々の献金は富んでいる人々の献金よりも価値がある、貧しい人が僅かかも知れないけれどもお金を献げることは辛い、痛みが大きい、だから、それだけでも値打ちがある、献げものというのは金額の問題ではなく心の問題、量の問題ではなく質の問題、などいうようなことではありません。教会は、全財産を献げなさい、などと間違ったことを伝え続けてきたのではありません。教会は、はたらいては全財産を献げ尽くし、またはたらいては全財産を献げ尽くすところに誕生し、存在してきたのではありません。この聖書の言葉に聴いてきた教会は、教会に生きる人々は全財産を献げ尽くして、ひもじい思いをして、物乞いに生きてきたのではありません。それなら、いったい何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。

2.
 大切なことは、献げることは、献げた御方の傍らに自分自身を置くことです。21:4「生活費」と翻訳されている言葉が、いのち、と翻訳することができる言葉である、ということです。ですから、この未亡人はいのちそのものを神に献げました。いのちそのものを神にお委ねしました。神に全てをお委ねしました。心も体も何もかも全て神に委ねました。なぜ、この未亡人がいのちそのものを、心も体も全て神に差し出すことができたのか。

 鍵になる言葉は21:1「見ておられた」、21:2「見て」という言葉です。見ておられた、見て、と翻訳されている言葉は、じぃーとよく視る、という意味の言葉が用いられています。主イエスは人々が献金を献げるのをじぃーと観察するように御覧になっておられました。人々は献金を献げていったい何をしていたのかというと、言うまでもなく祈りです、礼拝です。主イエスは人々が献金を献げるようすを御覧になられながら、人々の祈りを聴いておられた、礼拝の姿勢をじぃーと御覧になっておられました。

 ということは、私たちが今日ここでこうして献げている礼拝を主イエスが眼差しを注いで御覧になっておられる、祈りを聴いてくださっておられる、ということです。主イエスが私たちが献げる祈りに耳を傾けてくださり、礼拝を御覧になっていてくださる。私たちにとってとても嬉しいことです。主イエスが私たちの全てを御存知でいてくださる、ということはありがたいことです。

 この未亡人は、主イエスが眼差しを注いでいてくださる、ということを確信していました。この未亡人は夫を失い、どんなにさびしい悲しい辛い思いの中で過ごしてきたことか。しかし、神殿から離れなかった、礼拝から、祈りから遠離っていませんでした。
この未亡人は他人の眼を気にすることがないばかりか、神がどう御覧になっておられるのか、ということからさえも解き放たれて、しかし、全てを神に委ねて生かされていた未亡人でした。絶大な信頼を神に抱いていました。主イエスはしっかりとこの寡婦、未亡人に愛の眼差しを向けていてくださいました。私たちもまた主イエスの愛の眼差しの中にとらえられて生きることができるのです。




―――――― 2020年 8月23日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編95:1〜9
讃 美 歌  171(歌詞を黙読) 
聖書朗読  列王記上8:27〜30(P.542)
      ルカによる福音書21:5〜11(P.151)
祈  祷                          
説  教 『終末への備え』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  298(歌詞を黙読)
執事任職式
日曜学校教師就任式
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わ
   たしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、
   『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
           ルカによる福音書21:8