2020年 9月27日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/200926_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年 9月27日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編103:1〜5
讃 美 歌  139(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  ゼカリヤ書11:7〜15(P.1491)
      ルカによる福音書22:1〜6(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『イスカリオテのユダの謎』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  240(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏
聖書:しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ
   の中に、サタンが入った。  ルカによる福音書22:3


       2020年 9月27日 主日礼拝説教要旨
ゼカリヤ書11:7〜15、ルカによる福音書22:1〜6「イスカリオテのユダの謎」

1.
 私たちの救い主主イエス・キリストの弟子イスカリオテのユダが主イエスを裏切る。聖書が記す出来事の中で最大の謎の一つです。なぜ主イエス御自身が選んでくださったイスカリオテのユダが主イエスを裏切ったのか。なぜ主イエスは裏切ることになるような男を御自分の弟子としてお選びになられたのか。主イエスはイスカリオテのユダがやがて御自分を裏切ることを最初から御存知であったのか。主イエスがイスカリオテのユダがやがて御自分を裏切ることを最初から御存知であったのであれば、なぜそのような男を御自分の弟子としてお選びになられたのか。もし、主イエスがイスカリオテのユダがやがて御自分を裏切ることを予め御存知でなかったのであれば、主イエスは弟子の選びに失敗なさったのか。主イエスの十二人の弟子の一人が裏切る。本来あってはならないことが起こりました。主イエスにとってまことに悲痛な出来事です。主イエス御自身が祈られ、選ばれ、養い育てられ、訓練なさってきた十二人の弟子から裏切り者が出る、脱落者が出る、ということほど悲しいことはありません。

 主イエスはこう語られました。ルカによる福音書22:4〜6「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」、マルコによる福音書14:21「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」、ヨハネによる福音書6:70「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」、弟子たちの中に人の子即ち主イエスを裏切る者がいる。その者は不幸だ、生まれなかったほうがよかった、その者にサタンが入った。その者はは悪魔だ。たいへん激しい言葉です。しかし、この言葉はイスカリオテのユダに対する憎しみの言葉ではありません。悲しみの言葉です。

 イスカリオテのユダの裏切りと私たちとはいったいどういう関係があるでしょうか。洗礼を受け、信仰生活に入り、礼拝生活、教会生活を止めてしまうことも裏切りです。それなら、教会を離れず、礼拝をきちんと献げていると思っている私たちには関係のない言葉をここで主イエスは語っておられるのでしょうか。教会を離れず、礼拝をきちんと献げていると思っている私たちも平気で知らず知らずのうちに主イエスが語ってくださった言葉を裏切ってしまっています。聴いても聴かなかったことにしてしまいます。これもまた裏切りです。ですから、弟子イスカリオテのユダの裏切りは残念ですが私たちにとって無関係ではありません。私たちもまた主イエスによって選ばれた弟子だからです。それなら、私たちはいったいどうなってしまうのでしょうか。そもそももうイスカリオテのユダは救われないのか。さまざまな問いが浮かびます。

2.
 イスカリオテのユダだけが主イエスを捨てたのではありません。たとえ他の弟子たちが主イエスを見捨てても、自分だけは死んでもついていく、と豪語した一番弟子ペトロも、一緒に死のう、と語ったトマスもまた主イエスを捨てました。十字架の時、全ての弟子たちは逃げ去っていました。しかし、主イエスは、イスカリオテのユダ、ペトロに、トマスに、弟子たちに裏切られるからといって、弟子たちを愛されることをお止めになられたのではありません。弟子たちを愛し続けてくださいました。主イエスに愛されなくなった弟子が、主イエスがお見捨てになられた弟子たちが、主イエスを捨てたのではありません。今もなお主イエスに愛され続けている弟子が主イエスを捨てた。それだけに、主イエスの悲しみは深い。

 イスカリオテのユダは、後に、マタイによる福音書27:4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」、と告白しています。イスカリオテのユダは、自分がやったことは悪かった、と後悔しました。しかし、イスカリオテのユダは自殺した。それはいったいなぜか。それだけ深く罪を意識した、とも言えます。しかし、イスカリオテのユダは弟子たちのところに戻ってこなかった。ペトロもトマスも同じように主イエスを見捨てながら、また弟子たちのところに、教会に戻ってきました。それならいったいイスカリオテのユダはどうなるのか。

 ルカによる福音書23:34「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」、と祈ってくださった主イエス・キリストの祈りからイスカリオテのユダだけは除外されているのか。そんなことはない。また、ペトロの手紙一3:18〜20「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」、ペトロの手紙一4:6「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」、この言葉にイスカリオテのユダの救いがあるのではないか。まさにそれゆえに、私たちも主イエス・キリストに、あなたたちも私の者、あなた方も聖い、と呼んでいただけるのです。私たちも主イエス・キリストにこの上なく愛し抜かれています


―――――― 2020年10月 4日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編34:2〜12
讃 美 歌  143(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  民数記9:1〜14(P.227)
      ルカによる福音書22:7〜15(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『最後の晩餐』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  332(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
       ルカによる福音書22:15