2020年10月11日 主日礼拝式

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―――――― 2020年10月11日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  詩編105:1〜4
讃 美 歌  132(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  出エジプト記12:1〜20(P.111)
      ルカによる福音書22:14〜23(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『深い痛みを越えた喜び』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  203(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏
聖書:しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
       ルカによる福音書22:21


2020年10月11日 主日礼拝説教要旨
出エジプト記12:1〜20、ルカによる福音書22:14〜23「深い痛みを越えた喜び」

1.
 私たちの救い主主イエス・キリストは弟子たちとの最後の晩餐においてこう語られました。ルカによる福音書22:19〜20「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」、パンはあなたたちのために与える私の体である、杯はあなたたちのために流される私の血、新しい契約の血である。主イエスが、御自分の体、御自分の血潮、と宣言なさった言葉を私たちは、聖霊のおはたらきによって信仰によって十字架の上で裂いてくださった体、流された血潮として受け入れています。

 それなら、何のための体と血潮でしょうか。マタイによる福音書26:28「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」、と主イエスが語ってくださったように、罪を赦してくださるための血潮です。なぜ、主イエスが私たちの罪を赦してくださるために十字架に磔られ、血を流してくださる必要があったのでしょうか。なぜ、このような手続きを神はわざわざお取りになったのでしょうか。

 神が徹底的に聖く、義しい御方であるからです。神が聖く、義しい御方であるからこそ、不聖、不義をそのまま放っておかれることはおできにならない。不聖、不義なるものに対しては徹底的に容赦なくお審きになられる。神は聖と義を貫き通される。それは当然です。しかし、同時に神は徹底的に愛の御方です。愛を貫き通される。ですから、一方で神は聖と義を貫き通され、他方で神は愛を貫き通される。主イエスの十字架の死は神の聖と義とが貫かれた瞬間であり、愛が全うされた瞬間です。主イエスの十字架の死と復活こそ罪に対しての完全なる審きと赦しとが実現した瞬間です。

2.
 ところが、最後の晩餐の食卓において、22:21〜22「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」、弟子の裏切りを予告なさいました。ルカによる福音書は、主イエスが弟子たちとの最後の晩餐の食卓において語ってくださった言葉全てを記録しているわけではありません。ルカによる福音書において記録されている言葉は、後の教会の聖餐になった言葉と弟子イスカリオテのユダの裏切りの予告の言葉であり、この二つの言葉を切り離していません。弟子の裏切りと聖餐とは切り離すことはできない。

 しかし、裏切りと聖餐を切り離すことができないのは弟子たちが勝手に考え出したことではなく、主イエスがお望みになったことでした。主イエスは、22:21「見よ」、と語っておられるからです。視よ、と翻訳されている言葉は、主イエスがとても大切なことをお語りになられる時にしばしば用いられた言葉です。しっかりと視て欲しい、しっかりと聴いて欲しい、よく心に留めておいて欲しい。だから、弟子たちの記憶に留まりました。

 神の救いの出来事を想い起こす最後の晩餐の食卓=過越の食事・除酵祭の席において、弟子イスカリオテのユダの裏切り、弟子の罪を指摘なさいました。神の救いの恵みを想い起こし、罪の種を取り除く機会である過越の食事・除酵祭の時に、しかし、逆に弟子イスカリオテのユダの心と体の中に罪の種、裏切りの種が入ったことを主イエスは予告せざるを得ませんでした。それがどれほど辛く悲しいことであったか。しかし、イスカリオテのユダだけが主イエスを裏切ったのではありません。一番弟子ペトロもトマスも十二人の弟子全員が主イエスを捨てました。

 後に弟子たちが聖餐を執り行うたびごとに思い起こしたに違いありません。主イエスとの最後の晩餐の食卓での自分たちの愚かな姿、情けない姿。自分たちの仲間から裏切り者が出た、いや、自分たち自身、全ての者が一度は主イエスを見捨てた。主イエスを十字架の上に一人で残してしまった。聖餐に与るたびごとに、いったいあなたたちは十字架の時どこにいたのか、この問いを思い起こさざるを得ませんでした。このように、弟子たちにとって聖餐は深い痛みを思い起こす時でした。ですから、ここで問われることはいったい私たちはどういう思いで聖餐に与っているのか、ということです。

3.
 しかし、この食事はただ悲しい食卓に終ったのではありません。22:16「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」、22:18「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」、確かに、一方でこの食事が弟子たちとの最後の食事になりました。しかし、他方で主イエスは再び食事をともにし、葡萄酒を飲むことを約束されました。それはいつくるのか。

 主イエスが御復活なさった時です。主イエスは御復活なさって弟子たちと一緒にまた食事をしてくださいました。この喜びの食卓において、弟子たちは、主イエスが確かに生きておられる、神の国、神の支配、神がともにおられることを確信したに違いありません。

 もう一つの理解は教会が聖餐を始めた時です。聖餐に与るたびごとに、一度は主イエスを裏切り、見捨ててしまった自分たちをこのような食卓に招いてくださった主イエスの十字架の恵みを語りながら、喜びの食卓についたに違いありません。

 さらにもう一つの理解は主イエスが再び来てくださる時です。神の国の完成の時です。だから、最後の晩餐は実は最後の晩餐ではありません。主イエスが再び食事をしてくださる日が来る、喜びの葡萄酒を召し上がってくださる日が来る。神の国において私たちとともに食事をしてくださいます、喜びの食卓です。

 いや、今、既に私たちと一緒に聖餐テーブルを囲んで、主イエスが神の言葉を懇ろに語ってくださり、皆さん一人一人を見守っていてくださるのです。この礼拝の時、私たちを視詰めていてくださるのです。


―――――― 2020年10月18日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  イザヤ書12:4〜6
讃 美 歌  138(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  イザヤ書25:6〜10(P.1098)
      ルカによる福音書22:14〜30(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『一番偉い人は誰』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  332(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏
聖書:また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
       ルカによる福音書22:24