2020年10月17日 主日礼拝式

http://www.odj-ch.net/2020/201018_001_Sermon_.mp3

―――――― 2020年10月18日 主日礼拝式 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  イザヤ書12:4〜6
讃 美 歌  138(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  イザヤ書25:6〜10(P.1098)
      ルカによる福音書22:14〜30(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『一番偉い人は誰』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  332(歌詞を黙読)
献  金
祝  福
後  奏
聖書:また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
       ルカによる福音書22:24

2020年10月18日 主日礼拝説教要旨
イザヤ書25:6〜10、ルカによる福音書22:14〜30「一番偉い人は誰」
1.
 私たちの救い主主イエス・キリストはこう語られました。ルカによる福音書22:26b「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」、主イエスが語ってくださった言葉の中でも有名な言葉の一つです。上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
この言葉を主イエスが語ってくださったのには一つのきっかけがありました。22:24

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」、十二人の弟子たちの中で誰が一番偉いのか、という議論が起こった。ルカによる福音書は22:24「また」、と書き始めています。「また」、とルカによる福音書が書いたのは既に別の議論が起こっていたからです。いったいどのような議論が起こっていたのか、というと、22: 23「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」、十二人の弟子たちの中でいったい誰がそのようなことをしようとしているのかお互いに議論を始めた。そのようなこと、というのは、22:21〜22「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」、主イエスは、十二人の弟子たちの中から裏切り者が出る、裏切る者は不幸だ、と語られました。それで、弟子たちは、いったい誰がそのようなことをするのか、と議論を始めたのでした。それは当然です。お前ではないのか、いや、俺がそんなことする筈がない、とお互いに議論した。しかも、22:24「議論」、と翻訳されている言葉は、争い、という言葉と、愛する、という言葉とが一つになった言葉です。争いを愛する、という言葉です。喜んで言い争う。十二人の弟子たちは争いを好んだ。

 しかし、いったい誰が主イエスを裏切るのか、という議論、言い争いは直ぐに終わり、今度は、自分たちの中でいったい誰が一番偉いのか、という議論に移りました。主イエスが十字架によって死なれる、自分たちの中から裏切り者が出る、ということよりも、自分たちの中でいったい誰が一番偉いのか、ということのほうが興味があった。しかも、自分たちの中でいったい誰が一番偉いのか、という議論は、この時が初めてのことではなくこれまでにもありました。9:46「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」、しかも、この時も主イエスが御自分の十字架の死と復活を予告なさった直後でした。主イエスが殺される、ということよりも、自分たちの中でいったい誰が一番偉いのか、ということのほうが興味があった。驚くべきことです。

2.
 そこで、22:26b「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」、主イエスは、若い者のように仕えなさい、と語られました。そのお手本が、22:27「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。』」、と主イエスは語られました。私があなたたちに仕える。主イエスが弟子たちに、私たちに仕えてくださる。どのようにして仕えてくださるのか。最後の晩餐の食卓において、主イエスは弟子たちの足を洗ってくださいました。足を洗う仕事は奴隷の中でも最も身分の低い奴隷の最も卑しい仕事でした。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださる、ということは何を意味しているか。穢れを聖める、ということです。言い換えると、十字架です。十字架によって主イエスは弟子たちの穢れを聖めてくださる。主イエスが弟子たちのために、私たちのために、御自分のいのちを十字架に献げてくださり、仕えてくださる。弟子たちの足を洗ってくださる。弟子たちの罪を洗い聖めてくださる。私たちの罪を洗い聖めてくださる。

 しかし、弟子たちは主イエスがお語りになられた十字架の予告を無視し、最後の晩餐の席で、いつもの議論、誰が一番偉いか、という義論に熱中していました。その弟子たちの姿がどれだけ主イエスを悲しませたことか。主イエスは深い悲しみを抱かれつつ、十字架に赴かれることになります。

3.
 しかし、それにもかかわらず、22:28「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」、と主イエスは仰いました。踏みとどまってくれた。確かに、十二人の弟子たちは最後まで主イエスに従い続けた弟子たちではありました。しかし、この十二人の弟子といえども最後までとどまり続けることができたわけではありませんでした。主イエスの前で、醜態を晒して言い争い、主イエスを裏切り、見捨てる弟子たちです。しかし、主イエスはそのような弟子たちに向かって、最後までとどまり続けてくれた、と褒めてくださいました。まことに不甲斐ない弟子たちを、それでも、主イエスは愛され、褒められました。驚くべきことです。私たちが主イエスにとどまり続ける限り、どんなに辿々しく、覚束無い信仰の歩みをしていても、それでも、私たちを愛してくださり、褒めてくださいます。畏れ多いことです。

 主イエスは、誰が一番偉いのか、という議論を受け止めてくださいました。一番偉くなりたい、などと考えるな、と命じられたのではなく、一番偉くなりたい、と思う者はどうしたらよいのか教えてくださいました。一番偉くなりたい、一番先になりたい、言い換えると、上に立つ、先頭に立って歩く、ということです。上に立つ、先頭に立って歩く、ということを主イエスは決して軽んじられてはおられません。むしろ、重んじておられます。なぜか。主イエス御自身が十二人の弟子たちの上に立たれ、先頭に立たれて歩き続けてこられたからです。どこに向かって歩き続けてこられたか、というと、十字架の死に向かってです。主イエスは十字架の死に向かって決然として先頭に立たれて歩き続けてこられました。それは弟子たちに、私たちに仕えてくださるためです。私たちの罪の審きの身代わりとして御自身を十字架に献げてくださるためです。

 私は日曜日の礼拝の中でほとんど毎週のように、政治、経済、社会、教育、保育、介護、医療、科学などあらゆる分野において責任を課せられた人々に神の智恵、力、言葉が与えられますように、と祈ります。先頭に立っている人々のための祈りです。先頭に立っている人々はリーダーシップをとる、指導力を発揮する立場にある。後に付いてくる人々がいます。ですから、当然それだけ責任が重い。

 その時に求められることは、仕えることである、と主イエスは教えてくださいました。主イエスはただ言葉によって教えてくださっただけではなく、御自分の身をもって示してくださろうとしておられました。十字架の死によって仕える、ということはいったいどういうことなのかを指し示してくださろうとしておられました。

 主イエスの弟子たちもやがて上に立ち、先頭に立つことになります。教会の先頭に立って、伝道者、説教者として立てられる日が来ます。その時に大切なことは、仕えることによってです。身を低くし、謙り、謙遜になることによってです。しかし、卑屈になることではありません。なぜか。教会を治めるように選ばれているからです。聖書の言葉、神の言葉によって治める、聖書の言葉を土台として委ねられた務めにあたるのです。私たちもまた与えられた人生を神の言葉を土台にして歩み続けるのです。


―――――― 2020年10月25日 主日礼拝式予告 ―――――
前  奏  (黙祷)                    
礼拝招詞  ヨハネによる福音書4:23〜24
讃 美 歌  133(歌詞を黙読) 
十  戒  (小声で)
主の祈り  (小声で)
聖書朗読  イザヤ書55:6〜7(P.1152)
      ルカによる福音書22:14〜34(P.153)
祈  祷                          
信仰告白  使徒信条(小声で)
説  教 『立ち直ることができる』馬場康夫牧師
祈  祷        
讃 美 歌  270(歌詞を黙読)
献  金  
祝  福
後  奏
聖書:しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 
ルカによる福音書22:32